ヨーガスートラ自在力章

2016年

5月

25日

ヨーガ・スートラ3-1(自在力章)

〔凝念 ヨーガ第六部門〕

[3-1] 凝念とは、心を特定の場所に縛りつけることである。

Harmony with your thoughs and the ability to concentrate are attained by aligning the mutable aspects of humankind with a specific subject. ||1||

 

<解説>①ここから章は替わるけれども、序論で述べたように、内容上は前章に続いていて、ヨーガ八部門中の第六以下の三部門の説明に入るのである。この三部門は、内的部門(3-7参照)であって、綜制(samyama=サンヤマ)ともよばれる(3-4参照)。ヨーガにとってこの綜制の部分こそが本命であって、綜制に属する三部門は一連の行法をなしている。実際に行ずる時には、この三者はハッキリと区分できないのが普通であるのを、ヨーガの理論家がこれに心理学的な分析を加えて三つの部門に分けたのである。

 

<解説>②ヨーガの心理操作はすでに制感から始まっているのであるが、本経では、制感を外面的で予備的な部門に属させている。しかし、カタ・ウパニシャッドには、ヨーガを定義して、「五つの知覚器官を不動に執持すること」(sthira indriya-dharana)と説いていて、凝念の原語であるダーラナー(dharana)は知覚器官の執持(しっかりとつかまえておくこと)という場合に使われている。この頃には制感がヨーガ行法の主要部分と見なされていたようである。序文でも明らかにしたように、ヨーガ思想は長い歴史の間に、いろいろな形態に発達したのであって、本経典の八部門体系は限られた時代の、限られた思想圏内のヨーガ思想を示しているに過ぎない、と考えるのが学問的な考え方であるといえよう。本経典の中でも、八部門体系の外に、有想、無想、有種子、無種子等の分類法による体系づけが見られるのである。

 

<解説>③さて、凝念は制感とは反対に、積極的に、自主的に、特定の場所(desa)を択んで、そこへ心を縛りつける(bancha)心理操作である。2-53によればこの操作は意のはたらきによって行われている。ここで場所という語は、凝念の対象が具体的なものであることを示している。例えば、鼻のさき、臍、心臓など身体の一部や、または、外界のある適当な事物などが、注意集中の対象に択ばれる。縛りつける(bancha)というのはやや露骨な表現であるが、心を動かぬように固定するということの具体的な言いあらわし方である。

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2016年

5月

26日

ヨーガ・スートラ3-2

〔静慮 ヨーガ第七部門〕

[3-2] 静慮とは、凝念にひきつづいて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念がひとすじに伸びてゆくことである。

Allowing your thoughts to flow in an uninterrupted stream results in contemplation (dhyana). ||2||

 

<解説>①静慮(dhyana=ディアーナ)は仏教で禅那(jhana)といい、現代は”meditation” という語をこれに当てている。ヨーガ的心理操作中の最も中心的な過程である。

 

<解説>②静慮についての経文の説明がまことに科学的なのに驚かされる。心理的過程として見れば静慮は凝念の延長であって、凝念との間に断絶があるはずのものではない。凝念の心理操作が持続される時、いつしか静慮の過程へ移ってゆくのである。だから、静慮のための特別な対象を、改めて択ぶ必要はないわけである。凝念の時と同一の場所を足がかり(alambana)とする想念(pratyaya)が、中断することなく、変化することなく、ひとすじに伸展してゆく(ekatanata)のが静慮なのである。凝念によって一点へ凝結された心のはたらきが、今度はのびのびと、しかし整然と、ある一つの想念を中心として進展してゆく有様が一句の中に充分に描き出されている。

 

<解説>③凝念は集中的であるが、静慮は拡大的である。凝念のねらいが、なるべく狭い範囲へ注意の焦点をきめて、その対象を明瞭に意識上にのせる能力を開発するにあるとすれば、静慮のねらいは、凝念の修習によって得た明晰な意識をすべての瞬間に持ち続けながら、択ばれた対象についての想念の流れを段々と拡げてゆくにある。凝念は思想対象となる一点をしっかりとすえつけることであり、静慮は、その一点を中心とした同心円の形に、または絶えず原点へかえる螺旋の形に、思想の領域を拡げてゆくことだと説明してもよい。だから、凝念の対象は単純であるほどよく、静慮の動きはできるだけ複雑なのがよいと言われている。

 

<解説>④例えば、一つの花を対象に択ぶとすれば、その花に凝念することによって他の一切の事物への関心をしりぞけ、その花だけが、明瞭にかつ明晰に心のうちに焼きつけられるようになる。それに成功したならば、今度は、その花に関するいろいろな想念を、前と同じ高さの明瞭度と明晰度とを以て、極限まで展開してゆく。花の色、形、匂いは勿論、その生産地、贈り主等々、想いは際限もなく拡がってゆくであろう。しかし、それは、暗く沈んだ状態(昏沈)でもなく、浮動した状態(掉挙)でもなく、静平に綿々とつづく、澄明な意識である。これが静慮であって、この流れのゆきつくところに三昧がある。

 

<解説>⑤ただし、静慮が本当に解脱智の開発に役立つためには、まず凝念の対象が、例えば聖音「オーム」のように、抽象的で宗教的なものが善いのであるが、ここでは、凝念や静慮の練習法を述べることに主眼がおかれていて、対象の問題はしばらく棚上げされていると見てよい。

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2016年

5月

27日

ヨーガ・スートラ3-3

〔三昧 ヨーガ第八部門〕

[3-3] その同じ静慮が、外見上、その思考する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である(1-43参照)。

Insight (samadhi) occurs when only the subject matter of the orientation shines forth without any being affected by the person in question. ||3||

 

<解説>①三昧の心理学的説明としてまことに明快な文章である。三昧の心理は、今日の語でいえば直観である。直観の特色は、主客未分にあるといわれる。心理学的に言えば、主観の存在が忘れられて、客体だけが意識の野を占領する状態であるということになろう。同じことは経験的な直観についてもいえるのであるが、三昧は経験的直観とは違って、五官のはたらきを介せずに、純粋に思惟だけで得られた直観なのである。従って、三昧のなかみはもはや想念ではなくて、客観的対象物件そのものといってよいほど、極めて具体的なイメージである。たとえ、抽象的な観念を対象として始まった静慮であっても、その結果として到達した三昧は、きわめて具体的な内容をもっている。1-49に「この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている」と説明しているのはこのことである。仏教用語で証(saksatkara)というのもこの心境を言ったものである。

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5月

28日

ヨーガ・スートラ3-4

〔綜制〕

【3-4】 以上の三つの行法は、同一の対象に対して行われるから、総称して綜制とよばれる。

The three processes of dharana, dhyana, and samadhi, when taken together, are the components of meditation(samyama). ||4||    

 

<解説>①ここでは綜制(samyama=サンヤマ)という用語の説明が与えられているわけであるが、この説明は二つの内容を含んでいる。一つは、綜制とは三つの部門の総称であること、他の一つは、三者が対象を同じくした一連の心理過程をなしていることである。ただし経文の読み方によっては、「三者が同一の対象に対して行われる場合には綜制という」と解することもできる。そうすると、綜制は三者の特別な在り方を表わす用語となるが、恐らく、かかる限定された意味ではなくて、三つの部門は実際はいつでも不可分に連続した心理過程をなしていることを説いているのであろう。(3-2註参照)。

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5月

29日

ヨーガ・スートラ3-5

【3-5】 綜制を克服した時に、真智が輝き出る。

Mastery of this meditation gives rise to abosolute knowledge of all that can be perceived. ||5||

 

<解説>①綜制を克服する(tad-jaya)というのは、綜制(samyama=サンヤマ)が不動なものになること、または、綜制が習性となって、何時でもすぐにその心境にはいれることをいう。真智というのは、知るべきものの実相を、少しの惑いもなく知るところの智慧である。

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5月

30日

ヨーガ・スートラ3-6

【3-6】 綜制の使用は段階を追って行わなければならない。

This meditation is carried out in the three aforementioned successive steps. ||6||

 

<解説>①心のはたらきには上下さまざまな段階(bhumi=ブーミ)があるから、低い段階の綜制を充分に自分のものにした後でなければ、その一段上の心のはたらきにおける綜制を使用することはできない。行者が功をいそぐのあまり、段階をとびこえて高い段階の綜制を使用して失敗に終わるほかはない。ここで段階というのは、粗雑か微細かの差のことであって、有尋、無尋、有伺、無伺等の差異をいう。註釈家によれば、その段階の次にどの段階があるかは、ヨーガそのものによって教えらえるのだという。そこに引かれている一つの詩は、ヨーガ至上の立場を伝えていて、道元禅師の只管打座を想い出させるものがある。

ヨーガによってヨーガを知るべし。

ヨーガはヨーガより生ず。

ヨーガについて不放逸(怠らない)なるひとは、永くヨーガを楽しむ。

註釈家の言うところによれば、神の恩寵によって一気に高い段階を克服し得た人は、それより下の段階、例えば、他心通(他人の心を知る読心術)などに綜制を使用するのは宜しくない、とのことである。

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2016年

5月

31日

ヨーガ・スートラ3-7

【3-7】 綜制に属する三部門は、それまでの部門に比べて、内的な部門である。

These three steps are more internal (anga) than the previous steps. ||7||

 

<解説>内とか外とかいうのは、有想三昧を基準としていわれる。前の五部門は有想三昧を得るのに障害となるものをとりのぞく手段となるだけであるから、三昧に対して間接的な関係しかもたない。ところが、後の三部門は一連の心理過程をなして、直接に有想三昧そのものを得る手段となるから内的な部門といわれるのである。

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6月

01日

ヨーガ・スートラ3-8

【3-8】 しかしこれとても、無種子三昧にとっては、外的部門にすぎない。

However, these steps are still external compared to ultimate knowledge (nirbija samadhii) . ||8||

 

<解説>無種子三昧は、いかなる対象をも持たないから、三者はこの三昧に直接的な関係を持ち得ない。無種子三昧については本経1-51で取り扱われた。

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2016年

6月

02日

ヨーガ・スートラ3-9

〔心の転変の種々〕

【3-9】 雑念の行が隠滅して、止滅の行が顕現する時、その止滅の刹那に心が不可分に結びつくことが、止滅転変といわれるものである。

That high level of mastery called nirodhah-parinamah occurs in the moment of transition when the rising tendency of deep impressions, the subsiding tendency, and the mutable nature of humankind (chitta) converge. ||9||    

 

<解説>今までは、本経の内容はヨーガに関する心理学的な解説ばかりであった。この経文から後しばらくは、形而上学的な理論が展開される。

 

<解説>②これより3-15までの経文で、心(citta=チッタ)の転変(parinama=パリナーマ)という問題が取り扱われる。心の転変ということはどういうことか?このことを理解するには、前にもふれたところの、サーンキャ・ヨーガ哲学における転変説を知らなければならない。この哲学によれば、現実経験の世界は、主観、客観の両面ともに、唯一絶対の根元的実在である自性(prakkrti=プラクリティ)から展開してきたものである。その展開の仕方を転変というのである。転変とは、今までいかなる意味においても無であったものが有となるのではなく、原因の中に元来潜在していたものが、顕わとなったにすぎない(因中有果論)のことをいう。可能態にうつる。これが転変という展開の仕方である。

 

<解説>③ところで、この転変の基礎になっているのは何か?といえば、それは三つの徳(guna=グナ)である。三つの徳の相互関連の様式の変化に応じて転変するというのが実態である。徳はいわばエネルギーであって、ダイナミックな性格をもつから、三徳間の関連様式も各瞬間ごとに、休みなく、ダイナミックに変化しつつある。従って、転変は刹那ごとに行われつつあるのである。だから、現実経験の内容をなす主客両観の存在はともに刹那ごとに転変する不安定しごくな状態にある。ある状態が一時的に安定するように見えても、それは刹那ごとの転変が同じ様相を呈している、というだけなのである。転変というのはこうした展開の仕方であることを頭に入れておかないと、サーンキャ・ヨーガの哲学はわからない。

 

<解説>④さて、ここでは、心の転変がテーマとされている。心は自性の転変によって顕現したもので、三徳から成るものである以上、つねに転変しつつある。心が転変して何が顕現するかといえば、そこに心のいろいろなはたらき(1-6参照)と状態(bhumi=ブーミ)が現象する。心の転変の一種である状態には五種類あるが(後方参看)、雑念(vyutthana=ヴィウツターナ)の状態と止滅(nirodha=ニローダ)の状態とに二大別される。両者は相反の関係にある。雑念の原語には、起動とか発生とかいう意味があるから、雑念は止滅の反対概念になるのである。

 

<解説>⑤ここでもう一つ、法(dharma=ダルマ)と有法(dharmin=ダルミン)という対偶的概念についての哲学理論を紹介する必要がある。インド哲学では、法と有法は判断の賓辞(predicate)によって表わされるものと、主辞(subject)によって表わされるものとを意味している。有法(法をもつものの義)は法が置かれる場であり、法は有法において置かれるべきものである。だから、この両者の関係は、今日の論理から言えば非常に広いバラエティーをもっている。主辞と賓辞、実体と属性、場所とそこにあるもの、不変の実体とそれの現象などといった関係がそこに包括されている。今ここで問題になるのは、実体(個体的)とその現象という関係としての有法と法の関係である。というのは、ここで心と二つの行(潜在印象)とが、有法と法、つまり、実体とその現象という関係において考えられているからである。心は自性から転変して生じたものであるが、自性へ還没する時が来るまでは自己同一性を保持するから相対的に恒常性をもっている。これに反して、雑念と止滅の行(潜在印象)は刹那(laksana 正確には一瞬きする時間の四分の一で、時間の最小単位)ごとに生じて滅びる、まことに無常なものである。だから、この間の関係は有法と法との関係であって、有法たる心は雑念の行と止滅の行という二つの法を、所有しているということになる。

 

<解説>⑥そこで、凝念以下のヨーガ修習において、雑念を止滅して起こらせないようにする心理過程を心の転変という見地から解釈するならば、どういうことになるか?これが、この経文の問題なのである。この経文はこの問題に対してこう答える。止滅の修習においては、雑念の行が止められて、それが心のはたらきとして意識の表面に顕現する(仏教で現行という)力をうしなってしまうのに反して、その反対の法である止滅の行が力を得て顕現する。この時、止滅の行が現行すべき刹那と心との間に、一つがあるところ必ず他の一つがあるという必然的な関係(anvaya)が成り立つ(3-14参照)。この結びつき、いいかえれば心が止滅の現象は現われ得ないわけである。ただし、止滅の行と心とが結びつくといっても、止滅はもともと意識面に想念として現われ得ない消極的な法(現象)であるから、この止滅の転変の際には、止滅の行が心の潜在面に残ってゆくだけで、なんらの想念も意識面に浮かび上がってはこないわけである。とにかく、この経文によって、サーンキャ・ヨーガの哲学においては止滅というような消極的な概念さえもが、積極的でダイナミックな意味に理解されていることがハッキリ示されている。

 

<解説>⑦ちなみに、心の状態には

1)落ち着きがない状態(ksipta)

2)痴呆状態(mudha)
3)散漫な状態(viksipta)

4)専念状態(ekagrata)

5)止滅状態(nirodha)

の五種があるが、その中で、始めの三種が総称して雑念状態といわれるものである。

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6月

03日

ヨーガ・スートラ3-10

【3-10】 心の静止状態の持続は、止滅の行から生ずるのである。

The tranduil flow of transition to tranqulity gives rise to a new impression (samskara). ||10||

 

<解説>心の静止して動かない状態が持続するのは、実は止滅の行の刹那ごとの生滅がくり返されているということなのである。心は常に三徳の動きにつれて動いているが、心の転変の連鎖が一様である間は、心のうごきが停止している(prasanta, sthairya)ように見えるのである。決して、瞬間瞬間の転変がなくなっているわけではない。

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6月

04日

ヨーガ・スートラ3-11

【3-11】 雑念状態に見られる、どんな客体にでも惹かれるような態度が消えて、心の専念状態が現われるのを、三昧転変という。

The transition to insight (samadhi-parinama) is characterized by the mutability in human beings (chitta) becoming progressively less scattered, whereas the tendency toward consolidation increases. ||11||

 

<解説>有法(実体)である心はあらゆる客体に惹きつけられる(sarvarthata)雑念状態と、ただ一つの対象の上にながい間ととまっている専念状態(ekagrata)との二つの法(現象)に対して不可分の関係(anvaya)にあるが、雑念状態が意識から消えて、専念状態が現われる時、その移り変わりが、心の三昧転変(samadhi-parinama)とよばれるものである。

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6月

05日

ヨーガスートラ3-12

【3-12】 一つの消滅した想念と、その次の瞬間に現われる想念とが等似であるのを、心の専念性転変という。

The transition to one-poitedness, or ekagrata-parinamah, is the trnsition whereby human mutability (chitta) becomes perfectly balanced between arising and subsiding. ||12||

 

<解説>専念性転変(ekagrata-parinama)は、特に、顕在意識面に浮かび出た想念の等似性(お互いに等しく似ている性質)についていわれる。転変という面から見ると、三昧転変は、専念性状態が始まる瞬間の心の転変に限られ、その後、意識面に繰り返して同じ形の想念が浮かぶのが専念性転変ということになり、両者の間に区別があることになるが、実際は三昧と専念とは同一の心理過程である。

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6月

06日

ヨーガスートラ3-13

[転変の機構]

【3-13】 以上の転変の解説によって、物質元素と感官とに関する法(現象)、時間的位相、様態の三種の転変も説明されたわけである。

This explains the transformation of relinquishment (dharma-parinama), characteristics (lakshana-parinama) and states into material elements of the senses. ||13||

 

<解説>①この一経の文章は曖昧であるが、転変の理論を物質元素と感官についても明らかにしようとしたものであろう。3-9,10,11,12までの経文は意(マナス)に関する転変を明らかにしたが、同じ理論は物質元素や感官の転変についても適用され得るはずである。そういう意味で、転変のすべてが説明され終わったわけである、というのがこの経の主旨であろう。ところが、ここでは転変をさらに分析して、三種の転変としている。さきに述べたように(3-9参照)、物質、精神の両面にわたっていっさいの事象は、有法(実体)の転変によって顕現するが、この転変は三種の転変からなっている。三種の転変とは法(現象態)1)時間的位相2)様態3)とによる転変のことである。

 

<解説>②この三転変の内容をわかり易いたとえを以て説明しよう。陶器をつくる材料の粘土を有法すなわち実体としよう。この粘土が一つの土団子の形で陶工の渡され、陶工がこれを壺の形に仕上げたとすれば、粘土は土団子の法(現象態)をすてて壺の形を得たということになる。これが法転変(dharma-parinama)である。ところでインド的な考え方からいえば、壺の法そのものは生じも滅しもせず、粘土の法の一つとしていつも潜在的に存在するが、それが壺として経験の世界へ姿を顕わすには、未来、現在、過去の三つの時間関係(adhvan)において、未来の位置をすてて、現在の位置を手に入れなければならない。これが、時間的位相の転変(laksana-parinama)とよばれるものである。さらに、もう一つの条件がある。それは、現在時の位相をもち、現在壺の姿を保っている陶器も刻々と古びてゆき、形を変えつつある。これが様態の転変(avastha-parinama)ということである。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学から言えば、真我以外のすべての存在は三徳によって成り立つものであるから、一刹那といえども転変から離れはしないのである。この三種の転変は、別々に行われるのではなく、同時に相関連して行われるから、実はただ一つの転変があるだけである。我々が現実に経験するのは、様態としての事物に外ならない。

ところで、ここで経文が転変についての一般論を展開したのは、3-16以下で神通力の獲得を紹介するための伏線であるように思われる。(本書251頁以下参照)

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6月

07日

ヨーガ・スートラ3-14

【3-14】 有法(実体=グルミン)は、すでに没し去った法(現象=ダルマ)に、現に生起している法、未だ限定されていない法のすべてに相即して存在する。

Past, present and future tasks are all based on one and the same foundation. ||14||

 

<解説>有法すなわち実体なるものは、少なくとも、法に比べて相対的には不変であって、法が過去、現在、未来の三世の時間的位相をとって変化してゆくところ、常にその現象に即して存在しているというのである。

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6月

08日

ヨーガ・スートラ3-15

【3-15】 法の順位が刹那ごとに替わってゆくことは、有法の転変が替わってゆくことの証拠である。

Distinctness in transformation (anyatvam-parinama) are based on differences in the sequence ||15||

 

<解説>①この経文の原文はあいまいで、少なくとも二様の解釈が可能である。今はその中の一つの解釈に従って翻訳してみた。経文の意味を、例をあげて説明しよう。有法すなわち不変な実体を泥とすると、その法すなわち変化する現象態は粉末状の泥、塊状の泥、瓶の形の泥、破片状の泥、細片状の泥という順序で変形してゆく。この中の順位が替わること、例えば塊状の泥が陶工の作業によって瓶の形の泥に替わるのは、転変そのものにも交替があることを立証するものである、というのである。

 

<解説>②こういう解釈をとる時、この経文の究極の主旨は、転変ということの意味内容を、実体とその現象との関係ということに結びつけて明らかにするにある、ということになる。転変は、一つの実体と各々の現象態との間に、刹間ごとに成り立ってゆくものであって、たった一つの転変だけで、現象の多様な形が顕現するのではない、ということである。実体の転変は、順序を追って刻一刻と交替してゆく現象の各瞬間ごとの顕現順位に相即して行われている、というのである。これをわれわれの言葉で表現すると、実体は始源ではなくて根源である、ということになる。始源というのは事態の進展に相即して、常にその原因としてはたらいているということである。神は太古の時代に一回的に世界を創り、その後の世界は世界自身で展開してきたと考えるならば、神は世界の始源であることになる。これに反して、神は一回的に世界を創ったのではなく、世界はつねに神の創造によって維持されているのであって、神の創造なくしては瞬時も世界は存在し得ない、と考えるならば、神を世界の根源として理解したことになる。

 

<解説>③ヨーガにおいては、実体は根源的なものとして理解されているから、例えば土塊から土瓶が作られても、それは、土塊が有法となって、土瓶を転変したのではない。土塊も土瓶も、それが現象するには、それぞれに土という実体の、別々の転変を必要とする。このように、転変を考えるのが、ヨーガ哲学の立場である。

 

<解説>④以上の説明は、経文に対する一つの解釈に基づいたものであるが、もう一つの解釈の仕方がある。それは、転変に前述のような種類があるということをどうして知ることができるかといえば、前記三つの順序系列の間に差異があるからだ、という意味に解釈することである。この解釈に従うならば、この経文のいわんとするところは、系列の違ったものを混同してはならない、ということにある。法の系列と、時間的位相の系列とを混同して、法の系列の中へ、時間的位相の系列を割りこませたりしてはならない。というわけは、これら二つの系列は、実体に属する別々の転変に基づいているからである。例えば、現在経験されつつある土瓶は三種の系列的変化の合作によって顕現しているわけであるから、従ってそれは土という実体の三種の転変(現象的、時間的、様態的)の合作の結果生じたもので、ただ一種の転変だけによるものではない。このような解釈に基づいて本経文を訳すると、
「順序系統の差別は、転変の差別の認識根拠になる」。

これら二つの解釈のいずれが正しいかは、本経文と前後の経文との文脈的な関係から考えてみなければならないが、どちらの解釈も成り立ち得るように思える。

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6月

09日

ヨーガ・スートラ3-16

[綜制(サンヤマ)から生ずる超自然的能力]

【3-16】 前に述べた三種の転変に対して綜制をなすならば、過去と未来に関する知が生ずる。

Meditation (samyama) on the three types of change (parinama-traya) gives rise to knowledge of the past and future. ||16||

 

<解説>①これから三十数節にわたって、修練を積んだヨーギーが現わすいろいろな超自然的な力や現象が述べられる。この超自然的な力は原語でシッディ(siddhi、真言宗でいう悉地)、リッディ(rddhi)、ヴィブーティ(vidhuti)、アーイシュヴァリア(aisvarya)などとよばれる。この第三章の題名がヴィブーティとなっているように、これから後、第49経文に至る大きな部分が、この超自然力の解説にささげられている。このことは当時、ヨーガの世界において、超自然的な力がいかに大きな話題となっていたかをものがたるものである。

 

<解説>②さきにも述べたように、ヨーガにおいて、超自然力の可能を肯定する理論根拠は、経験的世界のすべての事象は、物理的たると心理的たるとを問わず、一つの根元的実在の各瞬間ごとの休みない転変の上に成り立っている、ということにある。今日の言葉を借りれば、すべての事象はエネルギーのダイナミックな波動を根基としているというわけで、心と物質の間に二元的な区分を立てず、しかも両者ともに刻々に変化してやまないものだと見るから、心から物質へ、物質から心への相互転換も不可能ではないことになるし、感官を媒介としない認識もあり得ることになる。ヨーガの考え方は迷信どころか、かえって近代科学に近いともいえよう。近代科学がいま少し前進すれば、心から物質へ、物質から心への転変を可能と認め、さらにはその方法を、科学的に開拓するということも起こらないとはいえない。

 

<解説>③さて、本経文のいわんとするところは、こうである。ヨーガに熟達した人が、ある事象について、「これは未来の時点から現在の時点に移って来て、現在の時点においてその仕事をすませて後、過去の時点へ転入するのだ」というふうに、雑念を払って、かの綜制の心理操作をなすならば、その対象の過去、未来についてのどんなことでも知ることができる、というのである。それは何故かといえば、心(チッタ)のサットヴァ徳(グナ)が清浄となり、その照明性が発揮されるならば、いかなる対象でもあるがままに把握することができるからである。

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6月

10日

ヨーガ・スートラ3-17

【3-17】 言葉と、言葉の表示する客体と、言葉の表象内容とを混合するために、混乱が起きている。これら三者の区別に綜制をほどこすことによって、あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる。

The name, task and experience associated with an object are interconnected. By meditating (samyama) on the distinction between these three, we attain knowledge (jnana) concerning the form of expression of all living beings. ||17||   

 

<解説>仏教で天耳通という名の神通力(三明六通)の作用の一部である(3-41参照)。

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6月

11日

ヨーガ・スートラ3-18

【3-18】 綜制の適用によって、行を直観するならば、前生のことがわかる。

Through meditation on our impressions (samskaras) comes the knowledge (jnana) of previous incarnations. ||18||

 

<解説>行(samskara)はこれまでの経験によって潜在意識内へ投入された、残存印象である。この行は、人の潜在意識内に蓄積されていて、記憶想念や業界となって顕現しない限り、永久に残存するものであるから、この行に対して綜制をほどこして、それを直観(saksat-karana)することに成功するならば、自分の前生だけでなく、他人の前生をも何生にもわたって知ることができる。この智を仏教は六神通の一つに教え、宿命智とよんでいる。ブッダも覚りを開かれる直前にこの宿命智を得て、自分の前生を何大劫という非常に遠い昔にまでさかのべってくわしく観察し、さらに他の生きものの前生をも観察したと言われている。(2-39参照)

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2016年

6月

12日

ヨーガ・スートラ3-19

【3-19】 綜制を以て、他人の想念を直観することによって、他人の心を知ることができる。

Meditation on the thoughts of another person gives rise to knowledge (jnana) of their mutable beind (chitta). ||19||

 

<解説>仏教で他人通という。

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6月

13日

ヨーガ・スートラ3-20

【3-20】 ただし、その知識は他人の想念の対象までも含んでいるわけではない。この知識の範囲は想念だけにとどまり、対象には及ばないからである。

But we learn nothing from the true nature of another person, for they are not an object that can be perceived. ||20||

 

<解説>上記の通力は、他人の想念のよりどころとなった対象(alambana)までもあわせてしることはできない、という限定がある。註釈家によると、何かある兆標(linga=リンガ)すなわち目じるしがなければ、綜制をほどこすすべがないからだという。想念の方は、顔の表情などが兆標になるから推知できるのである。

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2016年

6月

14日

ヨーガ・スートラ3-21

【3-21】 自己の肉体の形態に対して綜制をなすことによって、形態が他人に見られる能力が押さえられ、他人の眼の照明と出会うことがなくなる時、ヨーギーのからだは誰にも見えなくなる。

Through meditation on the form of one's own physical body, it becomes possible to impede the capacity that renders the body visible. This precludes a connection between light and the eyes and renders the body invisible to others. ||21||

 

<解説>隠身の術とか、かくれみのとかいわれる秘術を説明した経文である。物の形や色が見えるのは、見るものの方に対象を見る能力があると同時に、見られる形態の方に見られる能力があるからであるという原理をふまえて、この経文は書かれている。インドでは、偉大なヨーギー(ヨーガ行者)が自由に自分の身体を見えなくするという話はありふれたものになっている。

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2016年

6月

15日

ヨーガ・スートラ3-22

【3-22】 業には業界を発現する条件のそろったのと、未だにそろっていないのとがある。それで、自己の業に綜制を向けることによって死期を知ることができる。もっとも、死期はいろいろな前兆によっても知ることはできるが。

Meditation (samyama) on foreseeable and unforeseeable causes and causal relationships (karma) gives rise to knowledge (jnana) concerning fate. ||22||

 

<解説>①ここでは特に寿命の業報(2-13参照)について言われている。

インド人は臨終正念(死ぬまぎわにうろたえないで正しい心を持ちつづけること)ということを大切な心がけとしているので、死ぬ前に自分の死期を知ることを非常に望ましいことと思っている。死ぬ時の瞬間の想念が、来世の運命の決定に重大な関係をもっていると考えるからである。同じような考えは仏教の中にも伝わっている。

 

<解説>②死期はまた次のような凶兆(arista)でもって占い知ることができる、といわれる。それは、1)耳をふさいだ時に自分の身体の音が聞こえない。2)ふとしたはずみに先祖の姿がみえたりする。3)ふとしたはずみに天界の光景が見えたり、まわりの景色がさかさまに見えたりする、ことなどである。

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2016年

6月

16日

ヨーガ・スートラ3-23

【3-23】 慈などの情操に綜制を向けることによって、種々の力を発揮することができる。

Meditating on love (maitri) and the other positive attitudes (see ys 1.33) engenders the necessary strength. ||23||

 

<解説>慈などの情操に綜制を向けるならば、それらの情操の実践に堪えられるだけの力を発揮することができる。慈などというのは、慈、悲、喜、捨の四つの情操が一組になっているのを指しているが、その中で、捨だけは消極的で無内容な情操であって、実行力を必要としないから、力の発揮とは関係がない(1-33参照)。

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2016年

6月

17日

ヨーガ・スートラ3-24

【3-24】 象などの力に綜制を向けると、それらの力に等しい力が現われる。

Meditating on strength itself engenders the strength of an elephant. ||24||

 

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2016年

6月

18日

ヨーガ・スートラ3-25

【3-25】 綜制を使って、心の発現にそなわる光をあてることによって、どんなに微細なものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでも知ることができる。

Meditating on the source of the inner light gives rise to knowledge (jnana) of subtle, concealed and remote entities. ||25||

 

<解説>1-36に白光を帯びた心の発現のことが説かれている。綜制によって照明性を強められた心の発現にそなわっている光線を対象にあてることによって、分子や原子のような微さなものでも、地中にかくれている宝でも、千里の遠くの出来事でも知ることができるのである。インドでは紀元前からアトム説(極微論)がとなえられていたが、これはギリシア人のように推理によって到達したのではなくて、超自然的な力で極小なものを直観した結果だと言い伝えられている。インドの原子論は理論物理学的ではなくて実験物理学的な方法によって到達されたわけである。遠方のことがらを感じたり、ヴィジョンとして見たりするひとは今日でもいる。千里眼とか、テレパシーとかいわれる心霊現象は催眠術によって発現する場合もあって、あながちに否定することはできない。かくされているものを直観によって見つけるという経験も、ヨーギーの場合でなくても、しばしば耳にすることである。心の発現の光とはみないで、意のはたらきの光と解する説もある。

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2016年

6月

19日

ヨーガ・スートラ3-26

【3-26】 太陽に対して綜制を向けることによって、宇宙を知る力が現われる。

Meditation (samyama) on the sun gives rise to knowledge (jnana) of the ethereal and physical worlds. ||26||  

 

<解説>インドの神話では、宇宙(bhuvana)は地獄界から始めて梵天界に至るまで七段階の世界から成り、その各段階も沢山の世界に分かれている、と説かれている。

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2016年

6月

20日

ヨーガ・スートラ3-27

【3-27】 月に対して綜制を向けることによって、星の配置を知ることができる。

Meditating on the moon (chandra) gives rise to kwowledge (jnana) concerning the arrangement of the stars. ||27||  

 

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2016年

6月

21日

ヨーガ・スートラ3-28

【3-28】 北極星に対して綜制を向けることによって、すべての星の運行を知ることができる。

Meditating on the polestar engenders knowledge (jnana) of its constellation. ||28||

 

<解説>インド人にとっては、インドの太古に発達した天文学は、すごい精神集中力をもった人々の直観から生まれたものであったのである。インド人は、推理の力というものを余り尊敬しない。

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2016年

6月

22日

ヨーガ・スートラ3-29

【3-29】 臍輪に綜制をほどこすことにによって、体内の組織を知ることができる。

Meditation on the energy center of the navel (nabhi chakra) gives rise to knowledge (jnana) concerning the arrangement and structure of the physical body. ||29||   

 

<解説>①臍輪(nabhi-cakra=ナービチャクラ)というのは、実際の臍の孔ではなくて、そのあたりと想像される神秘な車輪状の部位のことで十六の幅をもっていると言われる。一説では、後世のハタ・ヨーガで説く六つのチャクラの中の下から三番目にあるマニブーラ(manipura)・チャクラのことであるともいう。いずれにせよ、肉眼で見える部分ではなく、幽体に属するものとされている。チャクラについては、ここで詳説する暇がない。臍輪は気体(生命エネルギーからなる身体)の中央にあるから、これに綜制を行なうと、身体内の組織がわかる、というのである。

 

<解説>②身体の組織とは、インド生理学によれば、三種の機能原理(風、胆汁、痰)、七つの要素(皮、血、肉、腱、骨、髄、精液)のことである。これらの組織を知れば、病気の診断、治療も可能となるわけである。

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2016年

6月

23日

ヨーガ・スートラ3-30

【3-30】 喉の井に綜制すれば、飢と渇を消すことができる。

Meditation on the pit of the throat (kantha kupa) causes hunger and thirst to cease. ||30||

 

<解説>喉の井(kantha-kupa)というのは、舌のつけ根のところよりも下の方の喉の部分にある穴のことで、これに気が触れると、飢渇の感が起こる。だから、これに対して綜制すれば飢渇の苦しみが消える、というのである。

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2016年

6月

24日

ヨーガ・スートラ3-31

【3-31】 亀の管に対して綜制をなすならば、堅忍性が得られる。

Meditation on the energy in the spine (kurma nadi) engenders steadiness. ||31||

 

<解説>亀の管(karma-nadi)というのは、前記の喉の井よりもさらに下の方に、亀の形をした管があるのを指しているのである。管(nadi=ナーディー)というのは、血管のことではなく、霊視によってしか見られない微妙な物質からできているもので、心霊学で幽体または霊体(astral-body)とよばれているものに属する。この管は、生気(prana=プラーナ)が流れるためのもので、その数は全身で72000本と言われる。ヨーロッパの学者の中には、これを神経組織のことと理解している人もあるが、両者を同一視するのは行き過ぎである。
堅忍性(sthariya)は心の安固な状態をいうのであるが、身体の堅固なことに解してもよい。

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2016年

6月

25日

ヨーガ・スートラ3-32

【3-32】 頭の中の光明に綜制を向けるならば、神霊たちを見ることができる。

Meditation on the light inside the head engenders contact with the masters (siddhas). ||32||

 

<解説>①頭の中の光明(murdha-jyotis)というのは、頭の頂上で、頭蓋骨の接合するところ、インドで梵の裂目(brahma-randhra)とよばれている所にある光明のことである。しかし、この光明の源は心臓であって、心臓から発した光明が、背中の中心を貫いているスシュムナー管を通って、ここに到達して、強い光の塊となっているのだと考えられている。

 

解説②ここで神霊(siddha=シッダ)というのは、高い地位の神々ではなく、幽霊よりは上位の霊人であって、天と地の中間に住んでいると考えられている(2-38参照)。現代の一インド学者はこれをマスター(主導霊)と訳している。マスターは初めのうちは修行者の夢の中に現われて教育し、後にはその姿を現わし、自分の名を行者に告げる。さらに行者の霊性が高まると、行者は自分の必要に応じていつでもそのマスターに面会することができるし、その上、他のすべての神霊に会うこともできる、と言っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるわけである。(2-44参照)

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2016年

6月

26日

ヨーガ・スートラ3-33

【3-33】 あるいは照明智によっても、すべてことを知ることができる。

Meditiation on intuition engenders knowledge about everything. ||33||

 

<解説>照明智(pratibha)というのは、弁別智の現われる前触れになる智慧のことで、一名ターラカ(taraka)ともいう。この智は得さえすれば、一々の対象に綜制をほどこす必要はない、というのである。

しかし、他の一説によると、意(マナス)だけから、なんの原因もなしに、突如として、間違いを犯すことのない智が生ずる。この光明(prabha)とよばれる智に綜制を向ける時に照明智が生ずるのだという。これは弁別智という太陽がのぼる前の曙光のようなものである(3-54参照)。

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2016年

6月

27日

ヨーガ・スートラ3-34

【3-34】 心臓に綜制を向けることによって、心(チッタ)を意識を向けることができる。

Meditation on the heart (hridaya) engenders knowledge concerning human mutability (chitta). ||34||

 

<解説>①心臓というのはもちろん、幽体的な心臓で、小さな蓮華の形をし、いつもは下向きになっている。この蓮華は心の座である。あるいは覚(ブディ)の座とも、内官(アンタハ・カラナ)=意、我慢、覚の座とも解釈されている。チャーンドーギア・ウパニシャッドには、「小さな白蓮華の家」の中にはアートマンがおさまっている、と歌われている。

 

<解説>②心(チッタ)はこころの実体であって、それ自身は意識面にのぼらないはずのものであるが、かの心臓に綜制操作を施こす時には、この秘奥にひそむこころの実体さえもが意識面に現われてくる、というのである。心が意識される以上、その現象形態は残らず意識できることになる。

 

<解説>③ある註釈家は、自分の心だけでなく、他人の心をも知り得ることだと解し、自分の潜在意識にひそむ行と、他人の心に浮かぶ悦び等とを知ることができることを意味するという。

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2016年

6月

28日

ヨーガ・スートラ3-35

【3-35】 サットヴァと真我とは、絶対に混合しないのに、両者が想念において混同されている状態が経験とよばれるものである。そこで、自己以外のもの(真我)のためにあるところのサットヴァを捨てて、自己のためにのみある真我に向かって綜制をなす時、真我の智が現ずる。

Outer enjoyment (bhoga) areises from a failure to distinguish between the physical world and the treu self, which are very different from each other. Knowledge (jnana) of the true self (purusha) arises from meditation (samyama) on matters concerning the true self rather rhan external matters. ||35||

 

<解説>①この一節は原文そのものに異なった読み方があるばかりでなく、意味の上でも理解に困難なところがある。ところで、サットヴァの上に描き出されたいろいろな形像の上に真我の影がうつることによって、そこに意識性を帯びた想念が現われる時に、その照らし出された形像を真我そのものの姿だと思い違いをして悦んだり、悲しんだりするのが経験(bhoga)とよばれるものである。この経験は、自性が真我のために自らを展開して作り出したもので、自性自身のためではない。それで、自性の展開である心のサットヴァを見捨てて、自己目的的である真我へ専ら綜制をすると、真我を如実に知ることができる、というのである。

 

<解説>②ところで問題は、綜制が向けられる相手は、真我そのものなのか、真我の想念なのか、ということである。綜制はサットヴァのはたらきであるから、真我を直接に対象にすることはできないという立場もある。その立場からいえば、この際綜制の対象となるのは、サットヴァの上に映じた真我の影像ということになる。想念に、サットヴァを本質とするものと、プルシャそのものからなる想念とがあって、綜制はこの後の想念に向けてなされる、見るわけである。しかし、真我そのものからなる(pauruseya)想念という考えには賛成し難い。むしろいろいろな想念の中で、もっぱら真我だけを対象とする想念に綜制を行なう、と考える方が無理がないであろう。また、真我を知り得るものは、真我しかない、という立場に立つならば、真我を知る智は真我自身のものだということになる。

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2016年

6月

29日

ヨーガ・スートラ3-36

【3-36】 この真我への綜制から照明智ならびに超自然的な聴覚、触覚、視覚、視覚、味覚、嗅覚が生ずる。

This results in intuitive hearing, feeling, seeing, tasting and smelling. ||36||

 

<解説>一本では、照明智(3-33)から、ここにあげられている超自然的な知覚が生ずることになっている。これらの超自然的な力によって天界や霊界のものを知覚することができるのである。(1-35参照)

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2016年

6月

30日

ヨーガ・スートラ3-37

【3-37】 これまで述べてきたような、綜制の緒結果は、三昧にとっての障害である。雑念にとっては、霊能であるが。

These powers are of secondary importance to those who have attained knowledge (samadhi), but are nonetheless feats for materially oriented individuals. ||37||

 

<解説>この経文はヨーガの立場を誤解から救う重要な典拠である。世間にはヨーガを呪術獲得の手法と考えたり、ヨーギーとは呪法師のことだと思ったりするひとが多いが、それはとんでもない誤解である。ヨーガの修習の結果、霊能が開発されるが、それはヨーガの最終の目的ではない。行者がそれらの霊能に有頂天になると、せっかくの三昧は挫折してしまうのである。ただし、それらの超自然的な力は世俗人の雑念の世界では、立派な霊能と見なされている。障害(upasarga=ウパサルガ)の原語にはまた、災難という意味があるし、悪霊に憑かれることをも意味している。禅宗などで魔境と言っているのにあたる。霊能(siddhi=シッディ)の原語は真言宗などで悉地と音訳し、その意味は修行の成就(成功)ということだと説明している。ヨーガの場合でも、この語は、修行の成功の現われという意味ももっている。だから本経文を、「綜制が成功した結果として生じた諸能力は、三昧境にあるものにとっては災難なのであるが、雑念の心境にあるものにとってはすばらしい霊能なのである」と訳してもよい。

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2016年

7月

01日

ヨーガ・スートラ3-38

【3-38】 綜制の修習によって、心を体内に縛りつけている原因が弱まり、他方では心の運行する道筋が明らかとなるから、心は他人の身体のなかへ入りこむことができる。

Relinquishing the causes of attachment to the physical realm and gaining knowledge of the energy channels angenders the ability to enter into another body. ||38||

 

<解説>心は本来、自由にどこへでも行けるたちのものであるが、業によって縛られて、一つの肉体の中に閉じこめられているのである。ところが綜制の修習によってこの業の力が弱められ、かつ心の運行する道筋が明らかになると、人は心を自分の身体から出して、死人または生きている他人の身体の中へ入りこませることができる。その時、他の緒官能(インドリア)も心についてゆく。こうして他人の身体のなかへ、自分の心を入りこませたヨーギーは、その他人の身体を自分の身体のようにして、思いどおりの立居振舞いができるのである。心の動いてゆく径路は不可視の細い管として考えられている。

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2016年

7月

02日

ヨーガ・スートラ3-39

【3-39】 綜制の修習によって、ウダーナ気を克服したならば、水、泥、刺(とげ)などにわずらわされず、また容易にそこから脱出することができる。

Gaining mastery over upaward flowing energy (udana-vaya) severs contact with nud, watar, thorns and the like; whereupon the yogi levitates. ||39||

 

<解説>①ウダーナ(udana)というのは、いわゆる五気(プラーナ)の一つである。このウダーナに対して綜制するならば、海や泥沼の中に落ちても沈まず、刺を踏んづけてもけがをせず、楽々とそこから脱出することができる。というのは、ウダーナを使いこなせると、身体を軽く浮き上がらせることができるからである。

 

<解説>②五気というのは、十三の心理器官全体の共同のはたらきである生命(jiva=ジーヴァ)の五つの活動様式である。五つの気をいうのは

(1)プラーナ(prana)~鼻頭から心臓までの間にとどまり、生気を運ぶはたらきをする

(2)サマーナ(samana)~心臓から臍までの間にとどまり、食べたものを消化して平等に配達する

(3)アパーナ(apana)~臍から足の裏までの間にとどまり、身体の汚れをとり去る

(4)ウダーナ(udana)~鼻頭から頭までの間にとどまり、上昇の原因である

(5)ヴィアーナ(vyana)は全身にゆきわたっている。

この五気の中で、プラーナが最もすぐれているから五気を総称してプラーナ(生気)という。さて、その中のウダーナは上方にあげるはたらきをするから、これを自由に使いこなせれば、身体を軽く浮き上がらせることによって、海や泥沼などから抜け出すこともできる。がまた、ウダーナは生命を引き上げて死を招くはたらきをするから、これを支配すれば、意のままに死ぬこともできる。

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2016年

7月

03日

ヨーガ・スートラ3-40

【3-40】 サマーナ気を克服するならば、身体から火焔を発することができる。

Mastery over metabolic energy (samana-vayu) engenders inner fire. ||40||

 

<解説>消化は火によって行われる。

 

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2016年

7月

04日

ヨーガ・スートラ3-41

【3-41】 聴覚器官と虚空との結びつきに綜制をほどこすことによって、天耳通が得られる。

Meditation (samyama) on the relationship between space and the power of hearing engenders the divine power of hearing. ||41||

 

<解説>虚空は耳と声の根基であるとはインドで昔から考えられてきたことである。耳の中の虚空(空間)と外界の虚空とが通じているから声を聞くことができるのだと考えられてきたわけである。だから虚空と聴覚器官との関係は場所と場所を占めるものとのまた支持するものと支持されるものとの関係として規定することができる、虚空は何物にも障げられずすべての処にゆき渡っているともこの霊能に関係があろう。天耳通(divyam srotam)は神霊等の声を始めとしてどんな微細な声でもささやき声でも遠方の声でも一度に聴くことができる力であるという。

 

 

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2016年

7月

05日

ヨーガ・スートラ3-42

【3-42】 肉体と虚空との結びつきに綜制をほどこすか、または軽い綿くずに定心を向けることによって、虚空を歩くことができる。

Meditating (samyama) on the relationship between the body and space and contemplating (samapatti) the lightness of cotton engender the ability to move through space weightlessly. ||42||  

 

<解説>ヨーギーの通力として有名な空中歩行の術を説いているのである。仏教では神足通といわれる。

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2016年

7月

06日

ヨーガ・スートラ3-43

【3-43】 定中にあって、心のはたらきが、想像上でなく、実際に身体の外でなされている時には、そのはたらきは大脱身とよばれる。これがなされる時には、心の光照をおおういろいろな障害がなくなる。

Meditating on unimaginable external thought waves gives rise to maximum disembodiment. This in turn lifts the veil on the true self. ||43||

 

<解説>①ここで心のはたらきというのは、特に意(ナマス)のはたらきのことである。綜制中に使用するのはもっぱら、意とよばれるはたらきであるからである。想像上でなく(akalpita)ということわり書きがついているのは、身体を自我と考える立場を捨てないで、自己の意だけを体外に遊ばせようとする想像上だけでの脱身ではないことを示すためである。大脱身(maha-videha)とよばれる遊離魂現象は、意が身体の内にあるという観念を打ちすてて、意を実際に身体から解放した場合に起こるのだというのである。心の光をおおう障害(prakasa-avarana)というのは、煩悩や業など、すべてラジャスやタマスのグナから成るものをいう(2-52参照)。

 

<解説>②ある註釈家は、大脱身という意のはたらきに対して綜制をなす時に心の光の覆障がとれる、という意味に解している。しかし、大脱身現象そのものが深い三昧中に起こる現象であるはずであるから、この解釈は適当ではない。思うに、大脱身は、深いトランス状態のことであって、外から見れば気絶状態とも見える程の、深い瞑想のことであろう。

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2016年

7月

07日

ヨーガ・スートラ3-44

【3-44】 五つの物質元素の粗い面、その本質的な面、その原因たる微妙な五唯の面、それに内在する三徳の面、それの宇宙的合目的性の面などに順次に綜制をほどこすならば五つの物質元素を克服することができる。

Meditating on the outer manifestations, true nature, underlying principle, temporal sequence, and purpose of something engenders mastery (java) of the physical elements (bhutas). ||44||

 

<解説>①五つの物質元素(地水火風空)は通例五大(mahabhuta)とよばれている。その五大の粗い面(sthula)といえば、その元素のもつ感覚的な性質、例えば、土元素のもつ色や音や匂いなどのことである。本質的な面(svarupa)とは、一つの元素全体に普遍である性質、例えば地は堅く、火は熱いなどの性質をいう。

 

<解説>②五大の質料因となる五つの唯(1-19註参照)はわれわれの感官では知ることができないから微細(suksma)と名づけられる。三徳(グナ)すなわち三つのエネルギーは、五大のすべてに内在(anvaya)(3-9註参照)し、それらの根本的傾向を決定するものである。宇宙的合目的性(arthavattva)というのは、五大のみでなくすべての存在はただ真我の経験と解脱のためにだけあるという、形而上学的合目的性をいう。

<解説>③こういう面に次々と綜制の強い脚光をあびせて、それらを鮮明に直観(現観)するならば、五大はその人の思いのままになる、というわけである。

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2016年

7月

08日

ヨーガ・スートラ3-45

【3-45】 五元素を支配するようになれば、身体を縮小するなどの自在力が現われ、また肉体が完全になり、そして肉体の諸性能はなにものにも破壊されなくなる。

This mastery engenders the ability to make the body appear to be extremely small, as well as attainment of an absolutely physical body and its indestructible integrity. ||45||

 

<解説>①自在力(siddhi or aisvarya)には八種ありとされている。それは

(1)身体を極限まで小さくして、岩などを自由に通り抜ける力

(2)身体を大空いっぱいになるほど大きくする力

(3)蓮の糸や綿くずよりも軽くなる力

(4)望みのままに、月にでも指をふれることができる力

(5)自分の意思するままに、どんなことがらでも実現できる力

(6)世界を創造し、支配する力

(7)万物を自分の意のままに従わせる力

(8)大地ほどに身を重くすることのできる力、あるいは、自分の意欲の対象を必ず手に入れることのできる力の八種である。

 

<解説>②肉体の完全(kaya-sampat)については、次の経文が解説する。

肉体の性能は何物にも破壊されない(tad-charma-anabhighata)という語の原語は、五元素(地水火風空)のもつ性質例えば火の熱などによって、身体が害されるようなことはない、という意味に解してもよい。

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2016年

7月

09日

ヨーガ・スートラ3-46

【3-46】 肉体の完全さとは、端麗、優雅、強力、金剛不壊の強靭さをいう。

The perfection of the body includes beauty, gracefulness, strength, and adamantine hardness. ||46||

 

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2016年

7月

10日

ヨーガ・スートラ3-47

【3-47】 緒感官の把握作用、その本質、それらのすべてと結びついている我想、それに内在する三徳、それの宇宙的合目的性等に綜制するならば、緒感官を克服することができる。

Meditation (samyama) on the process of perception, its actual form, your I-ness, and the purpose of your life engenders mastery (jaya) over the senses. ||47||

 

 

<解説>感官の本質、すなわちすべての感官に共通する性質というのは、照明性(prakasakatva)のことである。

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2016年

7月

11日

ヨーガ・スートラ3-48

【3-48】 緒感官を克服し得たならば、意(マナス)の如き速い運動、感官を離れてものを知り得る能力、世界の根元を支配する力が現われる。

This results in quickness of mind, liberation from the sense organs, and mastery (java) over matter. ||48||

 

<解説>前の経文にもあるように、感官の五つの面について綜制をなし終わったならば、ヨーギーはこの経文にあるような三つの霊能を発揮することができる。意の如き速度(manojavitva)とは極度に早いことを表わすもので、今日の神経伝導の速度を意味するのではない。感官を離れてものを知る能力(vikarana-bhava)という語を、肉体的な器官を使わずに知覚し得る能力、の意味に解してもよい。世界の根元といえば自性(プラクリティ)のことである。

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2016年

7月

12日

ヨーガ・スートラ3-49

[離憂という名の霊能]

【3-49】 覚と真我を弁別する英智に徹したならば、すべての世界の支配者たる力と、一切の事象を知る力とが生ずる。

Mastery of feelings and omniscience can only be attained through knowledge of the difference between the physical world and the true self. ||49||

 

<解説>これは離憂(visoka=ヴィショーカ)という名の霊能(siddhi=シッディ)であって、霊能中の最高である。上来の種々の綜制、ことに自己目的的な真我そのものへの綜制(3-35参照)などの結果、こころの内奥の静澄(1-48)な状態が生じ、その状態において、覚のもつ光明性も終に真我ではないことを鮮明に直観する。この直観に不動に止まるならば、やがて世界の支配者たる力、万象の在り方を徹見する力がヨーギーに現われてくる。

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2016年

7月

13日

ヨーガ・スートラ3-50

[至上離欲]

【3-50】 このような秀れた霊能に対してさえも喜びの心を抱かなくなった時に、すべての悪の根が絶たれて、真我独存の状態が顕現するのである。

Non-attachment (vairagya) even from that omiscience destroys the foundation of all dysbalances (dosha) and results in liberation (kaivalya). ||50||

 

<解説>前記の離憂自在力に対してすら、それを喜び、それに執着する心をいだくならば、真我の独存(kaivalya)という目的を完遂することはできない。何故かといえば、弁別智といえども、やはり、サットヴァの徳の一現象態にすぎないからである。それをさえも捨て去る時に、かえって、自性転変の目的が完了し、根本自性への還元運動が起こり、真我は究極的に三徳から離れる。つまり、最後の勝負を決するのは、智ではなくて離欲である(1-51参照)。離欲がなければ、いかなる自在力も解脱の妨害になる(3-37参照)ばかりである。ここで悪(dosa)というのは、煩悩のことである。4-29にはこの至上離欲によって法雲三昧が生ずるとある。

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2016年

7月

14日

ヨーガ・スートラ3-51

【3-51】 たとえ高位の神霊からの誘いをうけても、愛着と誇りとを抱かないことが大切である。さもないと、再び不吉なことが起こるから。

When the celestial beings beckon, the yogi should avoid forming any attachment to this complacency, since this contact can reinstate undesirable attachment. ||51||  

 

<解説>高位の神霊は人間が解脱を得ることに嫉妬を抱くといわれる。それで、天女の美しさや、不老長寿の神丹などでヨーギーを誘惑する。この誘惑に負けて、それらに愛着や誇りを感ずると、元の状態へ堕落してしまうのである。仏陀が覚りを開く前に、魔王(マーラ)の誘惑や脅迫をうけた話は有名である。註釈家によると、この神々の誘惑をうけるのは、ヨーギーの四階級の中、下から第二の階級の地位にあるヨーギーだという。

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2016年

7月

15日

ヨーガ・スートラ3-52

[ターラカとよばれる智]

【3-52】 刹那の時間と刹那から刹那への相続とに対して綜制を施すことによって、この分析から生ずる知が現われる。

Meditation (samyama) on the moments and their succession give rise to knowledge (jnana) that is born from discernment(viveka). ||52||

 

<解説>ヨーガの時間論によれば、我々が考えている通例の時間は観念的なものに過ぎない。しかし、刹那という時間単位だけは実体性をもっている。刹那(ksana)というのは時間を極限にまで細分した、いわば時間の原子のようなものである。その長さは、一つの動きつつある極微(元素細分の極限)が前の場所を去ってすぐ次の場所に達するのに要する時間に相当する、と説明される(2-50参照)。一つの刹那は次の刹那へと、水の流れのように、切れ目なくつらなってゆくのが相続(krama)である。相続は刹那と刹那の連続(anantarya)ということである。

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2016年

7月

16日

ヨーガ・スートラ3-53

【3-53】 この分析所生の知が現われた時には、種類や特徴や位置などによって区別を立てることができなくて全く同一に見えるところの二つのものをも、的確に見分けることができる。

This gives rise to knowledge of distinction between two similar objects that are not normally distinguishable on the basis of their category, characteristics, or position in space. ||53||

 

<解説>通例、二つの相似たものを見分けるには、そのものの種類と特徴と場所を識別の基準とする。この三基準によっても見分けのつかないものでも、この分析によって生まれた知を使えば識別することができる。例えば、同じ原素に属する極微(原子)を見分けるのは、この知によらなければできないと、いわれる。通常経験の例をとれば、形も色も大きさも全く同じ二つの果実があって、前後に並べられていたとする。観察者が横を向いた瞬間に誰かがその二つの果実を置きかえたとしたら、普通人ではそのことを見抜くことができない。しかし、ヨーギーはこれを見抜くことができる。それはどうしてか?というと、二つの果実は、それが置かれた空間点に特有な刹那を経験することで、互いに異なっている。ここに、二つの果実を見分ける根拠がある。このようにして、ヨーギーは、刹那の区別に対してさえ鋭い識別力を発揮することができる、というのである。

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2016年

7月

16日

ヨーガ・スートラ3-54

【3-54】 前記の分析から生じた知は、ターラカとよべれるものであって、すべてのもの、すべての在り方を対象とし、しかも一度に一切を知ることができる。

Knowledge that is born of discernment transcends all objects, all beings and all time. ||54||

 

<解説>ターラカ(taraka)というのは、「救渡者」の義、つまり人間をこの生死の大海から救い出して、無事に彼岸へ渡してくれるもの、という意味である(3-33参照)。一説では、ターラカという名称は、この知がヨーギー自身の照明智(プラテイバー、3-33参照)から生起するもので、他人の指導に待つものではない、ということを意味しているという。この解釈はターラカという語が、「救渡者」の意味の外に「瞳孔」の意味があるからであろう。ひとみは、自分にそなわる光で物を見るものと考えられていたからである。(ハタ・ヨーガ・ブプラディーピカー4-41,42参照)

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2016年

7月

18日

ヨーガ・スートラ3-55

[真我独存の境地]

【3-55】 覚のサットヴァと真我との清浄さが均しくなった時、真我独存の境地は現われる。

Liberation (kaivalya) comes when parity between the physical world and the true self (purusha) is attained. ||55||

 

<解説>①覚のサットヴァの清浄さ(sattva-suddhi)というのは、ヨーガの三昧によって得た真智によって、覚からラジャスとタマスの性格が拭い去られた結果、煩悩の種子が消え、従って行はあっても、心のはたらきは起こらず、ただ覚と真我の二元性についての弁別智だけが想念として残る。一方の真我は本性清浄であって、ただ、経験の享受者とし擬態を帯びていたまでである。覚のサットヴァの清浄さと、真我本来の清浄さとが全く相等しい状態になると、覚の本体である心は、その保有する行をそのまま抱いて、根元自性(mula-prakriti=ムーラ・プラクリテイ)の中へ還元的に滅没してしまう。それと同時に、真我はその擬態から解放されて、本来の光明赫々たる無垢の独存者(絶対自主的存在)たる姿を取り戻す。

 

<解説>②ここで我々は、この経典の作者が何故に、3-16以後ながながと種々雑多な超能力を紹介してきたかを考えてみなければならない。作者はその途中で、ハッキリと、これらの霊能は三昧心にとってつまずきの因となりかねないものであることを注意している。ヨーガの目的は決して、霊力や呪力の取得にあるのではないのである。それでは、いままでに列挙せられた、いわゆる悉地なるものはヨーガにとってどんな意味があるのか?註釈家によれば、これらの悉地は、覚と真我との弁別智をも含めて、すべてが、サットヴァ浄化のためであった、ということがこの経文で明らかにされたのだという。しかし、わたしは、この解釈に多少の異論がある。なるほど、多くの悉地(超自然的能力)の中には、たしかに覚を浄化し、三昧を成就するのに役立つものもあるけれども、例えば空中を飛行するとか、身体を縮小して岩壁を通過するなどということが覚の浄化にどういう利益をもたらすというのか?わたしの考えるところでは、悉地とか自在力とかいわれるものの意味は、ヨーガにおいては、いわゆる綜制の心理操作の錬成の進歩の試金石たるにあると思われる。

<解説>③雑念散動の心境を抑えて、三昧の心境が深まり、対象をより鮮明に、より不動に直観することができるにつれて、対象支配の力が発現する。だから、対象を支配する超自然的な力は、ヨーガ修行の途中における景品であると同時に、その心地がいかに錬成されたかの証拠になる。これによって行者励まされ、自信を高めるであろう。事実、これ程の三昧力がなければ、解説の直接原因たる真智を得ることはできないのである。かような考え方はサーンキャ学派や仏教の場合にもあてはまる。サーンキャでは覚のサットヴァの現象態(法)として法・智慧・離欲・自在の四つをあげている。

(1)法はヨーガの禁戒、勧戒

(2)智慧には内外あって、内智はまさしく弁別智

(3)離欲は上下あって、ヨーガの場合と同じく

(4)自在は前に述べた八自在である。

この最後の自在によって、ひとはこの世界において無碍(何物にも碍げられない)であることはできるが、解脱は得られない。解脱の正因は内智とよばれる弁別智である。仏教において、神通や自在力が取り上げられているのは、それが経験的事実として認められていたということに基づいているのではあろうが、同時に禅定、三昧の心境のかなり高度の段階を示すものと解されていたことを示している。このことは、宗教学上で大きな意味をもっている。それは、インドの宗教は、原則的にいって、霊媒の宗教ではないということである。霊媒的宗教においては、霊媒はただ神霊が憑依する道具にすぎない。霊媒そのものの能力は問題にならないのである。ところが、インドの宗教では、教祖は覚者(ブッダ)でなければ権化(avatara)であって、神と人間との仲介者(ミディアム)たる霊媒ではない。キリスト教や回教と、仏教やヨーガとの根本相違はここにあるのである。

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