ヨーガスートラ独存位章

2016年

7月

19日

ヨーガ・スートラ4-1(独存位章)

[超自然的能力についての補足]

【4-1】 上来説いてきた種々の超自然的な能力は、ある生まれつきによって、あるは薬草の力によって、あるは真言をとなえることによって、あるは苦行を行ずることによって、さらには三昧に入ることによって生ずる。

Supernatural powers (siddhis) arise from birth, drugs, mantras, austerity, or yoga (samadhi) ||1||

 

<解説>この一経は第三章の中にあるべきものである。ヨーガ・スートラの編纂がかなり形式的なものであったということの一つの証拠である。真言(mantra=マントラ)というのは、もとはヴェーダの本文のことであったが、後には、呪文としてとなえられる文句を意味するようになる。「オーム」の如きもマントラの一つである。ヨーガの中で、この真言の適用に重大な意味を付加する方向に発達したのが、マントラ・ヨーガ系の宗教は、インド宗教の発達の極限であると同時に、呪法宗教という原始宗教形態へ退墜する危険をはらんでいた。

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2016年

7月

20日

ヨーガ・スートラ4-2

[転生についての緒問題]

【4-2】 輪廻において他の新しい生涯に生まれ変わるのは、自性の充実によって行われる。

Physical transformation engenders inner transformation of the form of existence.||2||

 

<解説>①4-2以下の経文はいろいろと理解しにくい点をもっている。大体において第四章は、ヨーガ・スートラの中で最も哲学的な内容に富んでいるということができる。多分、この章の思想内容が成立した時代は、仏教で大乗仏教の哲学思想が発達した頃であって、その時代の沸騰した哲学熱のなかで、ヨーガ教徒も、哲学的理論への要求を強く感じていたのであろう。第四章の経文の中には、明らかに当時の仏教哲学を批判対象として、さらには仏教哲学の影響や刺激の下に、書かれた推定されるものが少なくないのである。だから、この批判の相手である仏教思想がどれであるかをつきとめれば経文の理解は比較的楽になる。註釈家は批判、反駁のあいてである仏教思想の名をあげているが、しかし、経文にはあからさまに当の相手の名をあげているわけではないし、それに経文は極めて簡潔であるから、この関係をどこまでつけることができるかは容易に決められない。例えば、ハウエル氏は、この経文4-2,3,4,5の内容を、仏教の唯識思想の阿羅耶識(alaya-vijnana)に似た宇宙根本心(Ur-citta)に関して説いたものと見ているが、そういう解釈は果たしてどれだけの信憑性をもち得るだろうか?

 

<解説>②さて、4-2の経文は何を言わんとしているのだろうか?わたしは、本経の内容を輪廻、転生の際の転変に関することとして理解した。それで、このような邦訳となったのであるが、しかし、インドの註釈家の解釈は、これとは違っている。彼等は、本経文を、あるすぐれたヨーガ行者が現生(現在の生)涯に経験した転生の奇蹟を説明したものとしてうけとっている。彼等が引く例は、むかしナンディーシヴァラ(Nandisvara)というバラモンが生きたままで神(デーヴァ、天人)になったという説である。<解説>③いずれにせよ、ここで問題になっているのは、現世変身にせよ、来世転生にせよ、新しい身体を取得する際の転変はどういうものか?ということである。経文は、この転変の根本原因を自性(prakrti)の充実(apura)ということに置く。自性というのは、サーンキャ・ヨーガの理論では、質量因と動力因とを兼ねたような原因である。自性は三つのグナの力動的相互関連の上に成り立ち、自分自身が不断に転変して万般の存在を現象する。ここでは、これを、自性の充実という語で表現した。充実というのは、水が池にみちるように、流れこんでくることである。充実という語には、自性の動的、積極的原因性が含意されているのである。サーンキャ哲学の因中有果論の理論によれば、果は因の中にもともとから実在している、というわけであるが、これを因の方からいえば、結果のもつ形相も内実もすべて因の中に含まれているということになる。

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2016年

7月

21日

ヨーガ・スートラ4-3

【4-3】 善悪の業は転変の副因であって、自性の使役者ではない。それはただ自性の流出の妨げとなるものを破壊するにすぎない。だから、業の働きは、農夫の労働に似ている。

However, outer causes are not sufficient to bring about inner change, which can be likened to a farmer removing a sluice gate so as to allow water to irrigate his rice field so that rice can grow there.||3||

 

<解説>前の経文によれば、転変の主動的役割をするのは自性であるから、善悪の業因の役割は消極的でしかない。そのことをここでは副因(nimitta=ニミツタ)とよんでいる。副因は使役者(prayojaka)すなわち自性を自己の意のままに駆使するものではなくて、ただ自性が自ら流出して、新たな誕生に始まるひとりの人間の境涯を充実し、形成するのを妨げるところのものを破壊して、自性の流出を自由にする役目をなすだけだというのである。それは、たとえば、農夫の仕事は、田へ水を引くために、溝を作ったり、稲の根が肥料を吸収するのを助けるために、草を抜きすてたりすることにあるようなものだという。一例をあげれば、善い業が悪い業を破壊し去った時に、自性は神々などの境涯に転変し始めるのである。

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2016年

7月

22日

ヨーガ・スートラ4-4

【4-4】 多くの転生において現われる心はすべて我想元質から生ずるものである。

The mutable self (chitta) is engendered solely by identification with that which is mutable.||4||

 

<解説>①この一経にもさまざまな解釈の余地がある。わたしは、この経文も輪廻転生において行われるべき転変について論じているものと理解した。つまり、輪廻によっていろいろな種類の生をうけるから、その心(チッタ、ここでは意、ナマス、すなわちものを考えたり、意志したりする心理器官)もまたさまざまとなるが、それらはすべて唯一の我想元質(asmita-matra)から生ずるのだ、というのである。輪廻する間には、猫に生まれたり、人間に生まれたり、神々の身をうけたりするから、それに応じて心のはたらきも変わるが、しかしそれらの心は唯一の我想から生ずるから、一つの魂の転生という意味をもつことになる。元質の原語マートラ(matra)は五唯(tan-matra=タンマートラ)という時のマートラと同じように、微妙な元素または原因のことである。自性(プラクリティ)は唯一絶対の根元的原因という意味の外に、個々の特殊な結果の質量因という意味をももっている。サーンキャ・ヨーガの理論では、我想(アスミター)すなわち我慢(ahamkara=アハンカーラ)から意(ナマス)が転変することになっている。意は変現(ヴィクリティ)で、その質量因は我慢なのである。

 

<解説>②しかし、インド註釈家は、この経文を、ヨーギーが同時に多くの身体を変現することに結びつけて説明する。すなわち、一人のヨーギーが一時に多くの変化身を現わす時、それぞれの身にそなわる心は、元のヨーギーのただ一つの我想から生じたものである。だから、変化身の心が別々にはたらきながら、ただ一人おヨーギーの変化身ということができる、というわけである。

さらに、ハウエル氏は新しい解釈を試みている。それは、このマートラという語から仏教の唯識(vijnapti-matra)を連想し、唯識思想における第八識の影響をここに認めて、ここのアスミター・マートラという語を「根元的心」(Ur-citta)の意味にとり、「絶対的我想」(die absolute Ichi-bin-heit)と訳している。この解釈は、興味深いものがあるけれども、ここでは多少いきすぎのように思われるし、かつは仏教唯識思想の正しい理解からも外れているようである。

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2016年

7月

23日

ヨーガ・スートラ4-5

【4-5】 転生によって変わる多くの心の発現の仕方は種々と違っているが、それらの多くの心は唯一の心によって使役されている。

While the forms may manifest in various ways, the mutable essence (chitta) is the underlying principle of these many forms.||5||

 

<解説>①この経文も前の経文と同様、三様に解釈することができる。わたしは、この経文を輪廻転生の転変についての解説だと理解した。つまり、転生する間に、あるいは人間になり、あるいは猫になりなどして、その時その時の心のはたらきが違ってくるから、従って、それらのはたらきの主因となる心もそれぞれ違ってくる筈である。それなのに、なぜ、それらの間に転生という関連を認めることができるか?それは、それら転生ごとの心の上にそれらの心をその時その時に使役し、駆使する唯一の心があるからだというのである。この心は超時間的であるけれども、超個人的ではない。ヨーガでは心(チッタ)は超時間的なものと考えられるものであるから、転生身の交替するごとにかわる心を立てるのは、少し理解しにくいが、当分ここでいう心は意以下のはたらきをする心に名づけたものであろう。使役者である心というのは前の経文の我想元質のさらに奥にあって、それ自身は少しも動かず、我想元質から生じた心を使役するものとも見られる。ここに唯識哲学の阿羅耶識のおもかげをしのぶことも無理ではない。

 

<解説>②しかし、この経文を註釈家に従って、ヨーギーの変化身に関する説明として理解することもできる。変化身の心のはたらきはそれぞれ違っているのに、それらの多くの心のはたらきが唯一の心の目的にそうようにあっているは何故かといえば、それはヨーギーの唯一の心がそれら多くの心の使役者となっているからだ、というのである。

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2016年

7月

24日

ヨーガ・スートラ4-6

[業と潜在印象]

【4-6】 さきにあげた五つの原因から生ずる超自然的能力のうちで、静慮から生じたものだけは、あとに遺存を残さない。

In the various manifestations, the impression engendered by contemplation (dhyana) is free of influences.||6||

 

<解説>五つの原因とは、生まれつき、薬草、真言、苦行、三昧のことである(4-1参照)。この中で三昧すなわち静慮から生じたものだけは、そのあとに潜在的遺存を心の中に残さないというのである。これを転機として、業と輪廻の問題を取り上げることになる。

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2016年

7月

25日

ヨーガ・スートラ4-7

【4-7】 ヨーギーの業は白くも黒くもない。その他の人々の業は三様である。

For a yogi, the law of cause and effect (karma) is neither white nor black, but is threefold for others.||7||

 

<解説>業には通例、白業、黒業、黒白業の三種がある。白業とは善い結果を生ずる原因で、例えば神を祭るなどの行為、黒業とは悪い結果を生ずる原因で、バラモンを殺すなどの行為、黒白業とは両方が混合している業で、通常人の行為は大体この種類に属している。ヨーギーの業はこれら三種のいずれにも属していず、なんらの結果をも生まないのである。

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2016年

7月

26日

ヨーガ・スートラ4-8

【4-8】 前世に積み重ねた残存印象の中で、特定の業務に適合するものだけが現象するのである。

In accordance with this law of cause and effect, the fruits ripen that correspond to the underlying desires (vasanas).||8||

 

<解説>ここで問題になっているのは、生類が無始の昔から輪廻転生してきたものとすれば、その無数の転生の間には、あるいは神霊になり(インドでは神々も低いものは堕落して人や獣になることもあると考えられている)、あるいは人や獣の類になることがあるであろう。それなのに、人間になれば人間に相応わしい習性しか現われず、猫に生まれれば猫らしい習性しか現われないのは何故か?ということである。それに対して、今の経文は答える。前生に積み重ねた残存印象は無数に多く存在するけれども、特定の転生のうちに現象するのは、その転生の業務つまりその特定の転生の種類(天、人、獣、等)、寿命、経験によくマッチするものだけである(2-13参照)。だから、人間の生涯の間に猫や神の習性は顕われてこないのだ。そういうのが、この経文の主旨である。残存印象(vasana=ヴァーサナ)というのは、行(samskara)の一部であって、行の中には業遺存(karma-asaya)や煩悩なども含まれているが(2-12,13)、ここでは特に習性を生み出す潜在印象(仏教では薫習、習気などという)だけを問題としているのである(薫習については2-24、3-18参照)。

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2016年

7月

27日

ヨーガ・スートラ4-9

【4-9】 これらの残存印象は、その成立した時とその発現した時との間が多くの生涯、場所、時によって隔てられているにもかかわらず、その間に断絶のない連続性があるとされるのは、再現した記憶とそれの行との間には同一性があるからである。

Even if modality, place and time cease to exist, the continuity of wish and consequences remains, for remembrance (smriti) and impressions (samskaras) are part of the same being.||9||

 

<解説>この経文の取り扱っている問題は、前の経文のそれと連絡している。ここでの問題は、前の経文に従って無数の残存印象の記憶(把住)の中から、特定の業務に適合するものだけが択ばれて特有の習性現象とするとして、それらの再生記憶の中には、いくども生まれかわった以前の生涯で蓄えこんだ残存印象もあるであろうに、どうしてそれらと再生した記憶表象との間に連続性が考えられるのであろうか?といって、もしもその間に連続性がないとしたら輪廻転生の間に連続性がないことになり、輪廻という観念は成り立たないことになる。この問いに対して、答えていう。行すなわち残存印象として潜在意識面に残ってきたものとそれの発現した習性的記憶との間には、同一性(ekarupatva)があるから、連続性すなわち因果関係があるということが成り立つというのである。

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2016年

7月

28日

ヨーガ・スートラ4-10

【4-10】 また、残存印象が無始であるのは、生への愛着がいつも存在しているからである。

The continuity arising from wish and reality has no beginning, for the will to live is eternal.||10||

 

<解説>潜在意識のなかに蔵されている残存印象の始まりを探ねてどこまでさかのぼっても尽きることがないのは、生類に生への愛着(asis)が、絶えることなく存在していたからである。

この思想も仏教とよく似ている。仏教でも輪廻、業の原動力は渇愛(tanha=タンハー)である。また、念は無間断に相続して無始以来絶えたことがないとする思想は、大乗起信論などにも、説かれている。念に断絶が出て、念の初相つまり念の起こる姿が把握されるのは、心の本体(心性)を覚り、無念の心境を得た時であると起信論は説いている(4-33註参照)。

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2016年

7月

29日

ヨーガ・スートラ4-11

【4-11】 残存印象はその原因、結果、依体、対象によって支えられているので、これらがなくなれば残存印象もなくなる。

The continuity of wish and reality arises from supporting factors and external objects. If they disppear, the continuity arising from wish and reality likewise disappears.||11||    

 

<解説>この経文では、無始以来連続してきた残存印象に終始符をうつにはどうすればよいかについての示唆を与える。潜在印象は四つのものの共同によって支持されて存続しているのであるから、この四者を滅ぼせば現実意識の原因である潜在印象はなくなるというのである。潜在印象の原因とは、苦楽等の経験のことであるが、それをさらに追及すれば煩悩はさらに無明(avidya=アヴィディアー)に根づいているから潜在印象の根本原因は無明ということになる。その結果というのは、ここでは現象した記憶つまり現実の経験的意識、起信論のいわゆる念のことである。その依体(asraya=アスラーヤ)すなわちそれが依存する本体というのは、心(チッタ)のことである。対象(alambana=アーランバナ)というのは経験が生ずる手がかりとなる対象である。

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2016年

7月

30日

ヨーガ・スートラ4-12

【4-12】 さきにあげた五つの原因から生ずる超自然的能力のうちで、静慮から生じたものだけは、あとに遺存を残さない。

The past and future exist inherently. Tasks (dharma) arise from the changes.||12||

 

<解説>五つの原因とは、生まれつき、薬草、真言、苦行、三昧のことである

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2016年

7月

31日

ヨーガ・スートラ4-13

【4-13】 これら現実にあるものも、隠微な状態にあるものも、すべて三徳をその実体としている。

These characteristics are manifest or subtle, physical or spiritual ||13||

 

<解説>これらというのは過現未の三時の相を以て、現在時には現実態、過去未来には潜在態で存在する記憶表象のことであるが、これらを通じてその実体となる三徳というのは、三つの徳の相関交渉の上に成り立っている心(チッタ)のことであって、この経文は4-12の内容を補っている。三徳から成る心がこれらの転変を通じて不変に内在するのである。

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2016年

8月

01日

ヨーガ・スートラ4-14

[客観と主観の二元性]

【4-14】 客観的事象の自己同一性は、転変の単一性に基づく。

The uniqueness of change comprises the essence of everything.||14||

 

<解説>サーンキャ・ヨーガ思想は実在論的であって、客観的事象(vastu)が主観の観念とは独立に存在することを主張する。それでは客観的事象の必要条件である自己同一性(tattva)はどうして成り立つかといえば、三つの徳(グナ)が相寄って単一な転変形態を構成するからだというのである。その仕方は、三つの徳の中で一つの徳が主となり、他の二つが従となる関係で、三者一体の転変をするのである。このことは外界の事物についてだけでなく、心理器官についてもいえる。サーンキャ・ヨーガ哲学では、内外両面における客観的事象が実在論的に考えられている。4-14~21の経文が対手としているのは、仏教唯識派の観念論の「唯識無境」の説であるといわれる。

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2016年

8月

02日

ヨーガ・スートラ4-15

【4-15】 客観的事象は同一であるのに、それに対する心は別々であることから見て、両者の道は別である。

That which is mutable in us (chitta) takes various paths to the same object, perception of which thus differs from one person another.||15||

 

<解説>①これも唯識派の観念論(見分相分説)を批判したものである。対象となる事象とそれについての想念を持つ心とは別々の道をたどるものであって、一つのものの両面でもなく、因果的連関をもつものでもないことを主張するのである。

例えば、ひとりの婦人を見て、あるひとは悦び、あるひとは悩み、あるひとは茫然とするというように、見る人の心によってその想念に差異が生ずるのは、心と客体とが別の道をたどる存在であることを語っている。三者の心は、その想念を生ずる副因(ニミツタ)が法(善徳)であるか非法(悪徳)であるか無智であるかによって前記の三様の結果が生じたのである。

サーンキャ・ヨーガの考えからいえば、一物が三様の印象を生ずる理由は、ただ心の方にだけあるのではなく、事物の方にもある。事物といっても、三徳のはたらきによるものである以上、片時といえども不変ではなく、刹那刹那に転変しつつあるのである。だから、同じ婦人が三人の男に対する時、その男の心が苦、悪、痴の面を刹那ごとに転換しつつ、対手の心に結びつくのであると考える。

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2016年

8月

03日

ヨーガ・スートラ4-16

【4-16】 客観的事象はどれか一つの心に依存しているのではない。もしも、客観的事象の存在がどれか一つの心に依存しているものとするならば、その心によってその存在が確認されないものは、いったいどうなるのか?

Nor does an abject depend on that which is mutable in human beings; for if it did, then what would happen to the object if it were not perceived? ||16||

 

<解説>①この経文も仏教の観念論を対手にしていると思われる。観念論者の言うように、もしも客観的事象が誰かの心(心体、心性)によって、つまりそれの結果として存在し得るとするならば、その特定の心によって確認(pramana)されないものはすべて存在しないことになる。すでに存在しない以上、それは他人の心によっても認識されるわけはない。そうすると、何人にもその自体を確認されない客観的事象というものは、いったいどうなるのか?それが再び心と結びつく機会はどうして起こり得ようか?また一つの客観的事象の一部だけが心と結びつき得ない時、その部分だけはないということにもなろう。

 

<解説>②例えば、身体の中で、つねに見ることのできない背中の部分は存在しないことになる。そういうわけで、客観的事象は心と独立に(svatantra)存在すると考えなければならない。心は真我ごとに存在し、この多数の心が、それらに共通の対象となる一つの客体と結びつく時に認識(upalabdhi)が成立するとみるのが道理にかなうのである。これがサーンキャ・ヨーガの実在論的認識論である。

ハウエル氏は、ここにいう心を個人ごとの心と見ないで、唯一絶対の宇宙心と見た(4-2参照)。仏教の影響を過大に見積もった見解だというべきであろう。

この経文は、あるテキストには欠けている。次の4-17の経文を引き出すための註の句であったものが、あやまって本文の中へ入れられたのではないかと思う。

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2016年

8月

04日

ヨーガ・スートラ4-17

【4-17】 心は、自身が客観的事象によって染められるのに応じて、それを認識するのであるから、客観的事象はその存在が知られることもあり、知られないこともある。

However, whether an object, situation person is understood or misjudged depends on the emotional preconceptions and the expectations of that which is mutable in human beings. ||17||

 

<解説>サーンキャ・ヨーガ的認識論によれば、客体の認識は、客体が心を自分の色で染める(uparaga)、実質的にいえば、客体自身の像を心の上に映ずることによって成立する。この認識論は二つの譬揄的な具体的考え方の上に立っている。一つは、客体と心との結びつきを磁石と鉄片との関係からの類推に基づける。客体は磁石に似て、自分では意欲しないでいて、しかも心を自分に関係づける。他の一つは、心を推奨の如き透明体と考え、水晶のそばに赤い花を置けば、水晶がそれを映じて赤く色づいて見えるように、心は客体に染められた姿を見せる、という考え方である。こういう認識論的立場に立ってこそ、同一の客体が、認識される場合もあり、認識されない場合もあることを説明することができる。というのは、心のはたらきそのものは普遍的であるから、客体は存在するかぎり必ずや認識されるはずであるが、しかし、認識には客体と心との結びつきが必要条件となるから、存在する客体は必ずしも認識されはしないのである。同時にまた、それだからこそ、心の転変ということも成り立つわけである。

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8月

05日

ヨーガ・スートラ4-18

[心と真我との関係]

【4-18】 ところが、心のはたらきは常に意識されている。それは、心の主君である真我は決して転変しないからである。

The true self can always observe the misconceptions (vritti) in that which is mutable in human beings, because this pure self (purusha) in not in motion. ||18||

 

<解説>客観的事象は知られたり、知られなかったりするけれども、心のいろいろなはたらきはすべて、常に知られている。さもなければ、それらは心のはたらきとはいわれない。心のはたらきはいつも意識されていなければならないのである。それでは意識性つまり統覚の根元は何か?そのものは心のようにそれ自身が転変するものであってはならない。転変するならば、それによって知られたり、知らなかったりする場合が出てくるからである。ここに、心の主君としての真我(プルシャ)の実在を要請(理論上での要求)する理由がある。真我は転変というものに無関係であり、かつ真我にあっては存在することと知ることとが必然に結びついているから、心のはたらきがあるところ常に真我によって知られざるはないのである。

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8月

06日

ヨーガ・スートラ4-19

【4-19】 心は自分自身を照らしだすことはできない。心は見られるものであるからである。

As that which is mutable in human beings is not inherently identifiable, it is a perceptible object. ||19||

 

<解説>心は単に被見者であって、見者ではない(2-17以下参照)から、心自身が意識の統覚作用をなうことはできない。「わたしは欲している」、「わたしはかのものを好まない」などという意識は、心の状態に対する真我の認証(pratisamvid)を待って初めて可能なのである。ここで「わたし」という言葉は、真我の指標として使われているのである。しかし、真我はただ、意識性の根元であるだけであって、真我自体が欲したり、好まなかったりするわけではない。真我を意識主体と考えることこそ、根本無明に外ならないのである。

この経文も、仏教の唯識派が第八識に自証分(svasamvid)という縁起を認めるのを反駁している、と見られる。

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2016年

8月

07日

ヨーガ・スートラ4-20

【4-20】 また、心は二つの判断を同時にこなすことはできない。

Nor can both the mind and the illuminating process be cognized simultaneously. ||20||

 

<解説>この経文も、心が自分を自分で知ることはできない、ということの論証を試みているのである。すべて、心は同一刹那に二つの対象に対して判断(avadharana)を下すことは不可能であるから、心が一方では外的対象に対して判断を下しながら、同時に他方でその判断を下す心のはたらきそのものについて判断をすることはできない筈だ、というのである。註釈家によると、この経文は、仏教の刹那滅論者(ksanika--vadin)に対する批判を含んでいる、という。

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8月

08日

ヨーガ・スートラ4-21

【4-21】 もしも心が他の心によって見られるとするならば、覚から覚への無限溯源に陥り、さらには、記憶の混乱が起こるであろう。

That which is mutable in one human being (chitta) being perceived by another mutable human being (chitta) would be as absurd as perception perceiving perception, and would result in confusion of remembrance. ||21||

 

<解説>これも真我の存在を否定しようとする仏教徒に対して反駁したものである。一つの心を見るものは別の心である、と主張するならば、その別の心はまた別の心によって見られなければ、それ自らの意識性を得られない。かくして、どこまでも際限なく覚(知性)から覚へと移ってゆかなければならなくなる。その上、一つの認識が成り立つにも、覚から覚へと無限にさかのぼる経験の記憶が生ずることになり、記憶混乱が生じ、単一な記憶の限定があり得なくなる。それ故に、不変であって、つねに証見者(saksin)である真我の存在を承認しないわけにはゆかない、というのである。

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2016年

8月

09日

ヨーガ・スートラ4-22

【4-22】 純粋精神である真我は、自分から対象に関係したりはしないけれども、覚が真我の形像を取得した時に、自己に所属するものとしての覚を認知する、ということが成立するのである。

Unlike the characteristic of that which is immutable in human beings, the true self is unchangeable and can thus achieve full knowledge and self knowledge. ||22||

 

<解説>この経文は本経1-4の理論的背景を明らかにしたものである。真我(プルシャ)は純粋精神(citi)であるから、なんら能動的なはたらきはしない。従って、覚を対象として、それに関わるというようなことはしないが、覚の方からさし出て、真我の形像(akara=アーカーラ)を自分の上へ取得し、それを映じ出す。その時に、真我がその覚を自己に所属するものとして認知(samvid)するという事態が成り立つのである。覚の自覚性は、真我と覚の共同作業の結果であるかのように見えるが、実は覚の独演にすぎない、というわけである。

 

真我と覚の関係こそはヨーガ哲学の最も難しい部分であって、対象認識のうちに覚のはたらきと同化している(jnana-vrtti-sarupya)真我の姿を洞察することは容易ではない。インド註釈家が引用する次の一句はまことに示唆に富んでいる。

「永遠なる梵のかくされたところといえば、それは黄泉でも、洞窟でもなく、闇の中でも、海の底でもない。それは真我から区別されない覚のはたらきであると詩人はいう」

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2016年

8月

10日

ヨーガ・スートラ4-23

【4-23】 心は見るものと見られるものとの双方から染められることによって、あらゆる客体を対象とすることができる。

The actual purpose of that which is mutable in human beings (chitta) is to see colse up both the observer (drashtu) and the observed object. ||23||

 

<解説>見るもの(drastr)とはいうまでもなく真我であり、見られるもの(drsya)とは客体である。照明性を特色とする心のサットヴァ徳(グナ)が、客体(artha=アルタ)と真我(プルシャ)の双方の形相を自己の上に取得する時に、その客体を認識することができる。だから、心には、把握するもの、把握する作用、把握されるものの三面がそなわっている。これらを明瞭に弁別する人こそ正しい見解を持っている人であって、真我を捉えることができる。

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2016年

8月

11日

ヨーガ・スートラ4-24

【4-24】 心は過去に蓄積された無数の残存印象を保有してすこぶる複雑多様であるが、実は自己以外のもののために存在するのである。何故かといえば、心は複合体であるからである。

This human mutability (chitta) has countless wishes of every description (vasana). But it has another purpose-namely to establish a connection between the outside world and the true self. ||24||

 

<解説>自己以外のものとは、真我のことであることはいうまでもない。心の転変は、自己目的的ではなく、真我の経験と解脱のためであるとは、サーンキャ・ヨーガ哲学の根本思想である(2-21参照)。

「心は複合体であるから」という理由づけはサーンキャの哲学で用いる論証法を借用したのである。この哲学では、真我の実在を論証するために次のような論法を用いる。すべて複合体は自己目的的な存在ではなく、他のものの目的に奉仕するためである。例えば、いろいろな材料から合成された家屋は、人が住むためのものであって、家屋自体のためではないように、五つの物質元素を始めとする多くの要素から成る個的存在は、自己のために存在する筈はなく、必ずや自己以外のものの目的に奉仕するためにあるのだ。他のものとは、単純で動きのない真我に外ならない。このように論証するのである(金七十論第十七偈)唯識の第八識はこの点から見て、真我たる資格をもたないわけである。

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2016年

8月

12日

ヨーガ・スートラ4-25

[真智の発現から解脱へ]

【4-25】 真我と覚との差別を知った人には、自己の存在に関するいろいろな思案が消える。

For he who has experienced this unique vision (darshana), the desire (vritti) for self fulfillment vanishes.||25||

 

<解説>自己の存在に関する思案(atmabhava-bhavana)とは、「自分は過去に何であったか?」「来世はどんなものになるだろうか?」などということを思いめぐらすことである(2-39参照)。この語はまた「覚を真我であるとする妄想」という意味に解することもできる。

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2016年

8月

13日

ヨーガ・スートラ4-26

【4-26】 この時、心はかの弁別の方へ傾き、独存の境地への進路をとることになる。

Then the power of discernment (viveka) will be strengthened and all that is mutable in human beings (chitta) will take the path of liberation (kaivalya).||26||

 

<解説>真我と覚の弁別を対象とする方向へ傾く、ということである(2-26参照)。

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2016年

8月

14日

ヨーガ・スートラ4-27

【4-27】 このような心にも、その間際には、これまでに蓄積された行から生じた、他の想念が入りこんでくるものである。

This viewpoint is breached by preconceptions (samskara), whereupon other impressions arise.||27||

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2016年

8月

15日

ヨーガ・スートラ4-28

【4-28】 これらの行を除去する仕方は、前に説いた煩悩を除去する仕方と同様である。

These preconceptions are eliminated as described previously for spiritual burdens(klesha).||28||

 

<解説>本経2-10,11に煩悩を除去する方法が説かれている。過去の雑念的経験から生じた行が真智の火に焼かれて、焦げた種子のようになった時、それらの行は二度と心の大地の上に、想念となって発芽することはない。

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2016年

8月

16日

ヨーガ・スートラ4-29

【4-29】 ヨーギーが最高の直観智に対してさえなんらの期待を抱かず、あらゆる形の弁別智を尽したならば、法雲三昧の境地が現われる。

Attaining genuinely deep insight even engenders constant imperturbability and discernment (viveka). This state is referred to as dharma megha samadhi.||29||

 

<解説>①最高の直観智(prasamkhyana)というのは、深い瞑想から生ずる智で、ありとあらゆる事実在の配置の順序と、それら真実在の間の差別と、それらの本質を知る智力である。かかる智恵に対してさえも、その結果への期待を抱いてはならない。それに対して至上の離欲を適用することが、必要であるというのである(3-50参照)。

 

<解説>②法雲三昧(dharma-megha-samadhi)の内容については註釈家の意見は一定していない。次の経文(4-30)で、この三昧が現われるときには煩悩と業が滅するとあるが、三昧の内容は判らない。ヴィジュナーナビクシュの『ヨーガ精要集』(Vijnanabhiksu:Yogasarasamgraha)の中に、法雲三昧とは一切知から生ずる、秀れた法を降らす三昧ということである、と説明している。この法は、法、非法というの時の法で、善い結果をもたらす徳または力の義であろう。

 

<解説>③ところで、法雲三昧という語は、ハウエル氏の言うように、恐らく仏教からの借りものであろう。ハウエル氏の解説によると、ここの法(ダルマ)は「万物を支持する根本力」(tragende Urmacht)を意味する。この三昧に入った行者は世界を支持する根本的な力に包まれる。彼は法身(dharma-kaya)を得たのである。法雲三昧は、涅槃に入ったブッダの徳を表わす言葉である、という。しかし、大乗仏教では、ボサツの階位である十地の中の最高の階位を法雲地と名づけている。その意味は、大法の智雲があまねく甘露の雨をそそぐ位である、という。この階位はボサツの最高位ではあるが、未だブッダの境位ではない、とされている。とにかく法雲三昧は弁別智の完成時において現われる三昧である。

 

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2016年

8月

17日

ヨーガ・スートラ4-30

【4-30】 その時、煩悩と業は還滅する。

Then the concept (vritti) of spiritual burden (kiesha) and cause and effect (karma) will be completely removed.||30||

 

<解説>法雲三昧が発現すると、無明を根本とする諸煩悩と無始以来蓄積された無数の業は、真智によって根を断ち切られて滅びる。

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2016年

8月

18日

ヨーガ・スートラ4-31

【4-31】 かくて、すべての煩悩と業が還滅した時、いっさいの蔽いと汚れの去った智は無辺となるので、なおも知るべきものとてはわずかしか残らない。

Then all veils and uncertainty fall away.Knowledge tha can be gained is nothing compared to the infinity of knowledge.||31||

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2016年

8月

19日

ヨーガ・スートラ4-32

【4-32】 それによって三徳はその目的を果たしたので、それらの転変の相続も完了する。

In this way is the purpose of change accomplished and all change (krama) in the physical realm (guna) comes to an end.||32||

<解説>三徳転変の目的は真我の経験と解脱とにある。この目的が完遂されれば三徳転変の根本動機がなくなるので、転変の相続も終結を告げる段取りとなる。

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2016年

8月

20日

ヨーガ・スートラ4-33

【4-33】 相続は各刹那と不可分に結びついているので、転変の終極において初めて把握することができる。

The experience of a sequencing process of moments and changes comes to an end, thus making change (krama) a real experience.||33||

 

<解説>相続(krama=クラマ)があらためて説明されている。本経3-52では「刹那から刹那への相続」と記されているように、時間の微分子ともいうべき刹那と刹那が断絶なく続いているのを相続というのである。この相続は、転変ということが成立するための前提条件として、我々にも考え得られることではあるけれども、これを本当に認識し、把握することはできない。相続という事実を本当に捉えることができるのは、転変が永久い終わりを告げる刹那である、というのである。これに似たような考え方が、大乗起信論の中に見出される。迷える衆生は無始以来、念々相続して、未だかつて念を離れたことはない。この状態にある間は、心体の相(現われ)が生住異滅の四つの段階を経ながら転変してゆく姿を如実にとらえることはできない。この心の相を知ることができるのはボサツのあらゆる段階を卒業して、一念(一刹那の理念)に覚りを開き、無念(想念がなくなった状態)を得た時である、と説かれている(4-10註参照)。

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2016年

8月

21日

ヨーガ・スートラ4-34

【4-34】 独存位とは、真我のためという目標のなくなった三徳が、自分の本源へ没入し去ることである。あるいは、純粋精神なる真我が自体に安住することだ、といってもよい。

Liberation (kaivalya) fulfills the goal the true self (purusha) ; matter (guna) is transcended. The true nature of being and the force of absolute knowledge are then revealed.||34||

 

<解説>サーンキャ・ヨーガの思想では、独存位すなわち解脱は両面から説明されるのが常である。

一つは、三徳すなわち自性の面からの説明で、三徳が自性から覚、覚から我慢へと転々と展開する転変の運動を捨てて、逆に自性へ向かって還りゆく運動を起こし、終に自性の中へ没入し去った状態のことであるとせられる。

他の一つは、真我の面からの説明で、真我が三徳の転変に関わることをやめて、自己本体の在り方に安住する(pratistha)ことが解脱であるとせられる(3-55註参照)。

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