ヨーガ・スートラ三昧章

2016年

2月

10日

ヨーガ・スートラ1-1、1-2(三昧章)

これから、パタンジャリ作と伝えられる『ヨーガ・スートラ』を、佐保田鶴治先生の解説本で紹介します。

ヨーガ・スートラは以下の4つの章よりなる。

 

1・三昧章 Samadhi-Pada

2・禅那章 Sadhana-Pada

3・自在力章 Vibhuti-Pada

4・独存位章 Kaivalya-Pada

 

第1章「三昧章」

[1-1] これよりヨーガの解説をしよう。

Yoga in the here and now: an introduction to the study and practice of yoga||1||

【ヨーガの定義】

 

[1-2] ヨーガとは心の働きを止滅することである。

When you are in a state of yoga, all misconceptions (vrittis) that can exist in the mutable aspect of human beings (chitta) disappear.||2||

 

<解説>①心のはたらきについて、1-6には次の5種類をあげている。

1正しい知識

2誤った知識

3観念的知識

4睡眠

5記憶

 

<解説>②これらの心のはたらきを抑止して、消滅させる心理操作がヨーガである。ヨーガ心理学で心(チッタ)というときは、深層心理を含めた全ての心理の根源であるものを意味する。仏教では心(チッタ)は心王と訳されている。

 

<解説>③心(チッタ)の心理学的、哲学的意味については、さきに行って追々と明らかになる。心とそのはたらきとの関係はヨーガ思想では、実体とそれの現れの関係、例えば、湖の水と波のような関係として考えられている。

 

<解説>④止滅(ニローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしていく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。

 

<解説>⑤ここでは、止滅は三昧(サマディ)、ヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(うそう;心理作用が残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅と呼ばれている。

 

 

<解説>⑥このニローダ(止滅)という言葉は仏教的な匂いを持っている。

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2016年

2月

12日

ヨーガ・スートラ1-3

【真我】

[1-3] 心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たる真我は自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。

For finding our true self (drashtu) entails insight into our own nature.||3||

<解説>①ここではサーンキヤ(「数論(すろん)」)哲学の二元論が前提となっている。この哲学では究極の原理または実在として、自性(プラクリティ)と真我(プルシャ)の二元を立てる。自性(プラクリティ)は客観的な宇宙、万物の根源となる唯一の実在である。

 

<解説>②物質的な存在はもちろん、人間の心理的な器官も、すべて自性(プラクリティ)から展開したものである。これに反して、真我(プルシャ)は主観の主観ともいうべき純粋な精神性の原理で、各個人の本当の自我である。真我は、客観的存在のありさまを見ているだけの純粋な観照者なのである。

 

<解説>③われわれの心理現象というのは、自性から展開した無意識性の器官の変様の上に真我の純粋な意識性、照明性が映じた結果生じたものである。真我自身の姿といえば、独立自存な絶対者で、時間、空間の制約をうけず、つねに平和と光明に満ちた存在である。

 

<解説>④これが各人の真実の我の本来の在り方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を現実に受けているような錯覚を起こしているのが、われわれの現状である。

 

<解説>⑤この錯覚をどうして取り去ることができるか?これが課題なのである。ヨーガのねらいとするところは、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリヤ)を実現するにある。インド思想一般の言葉でいえば、ヨーガの目的は解脱(モクシャ)にあるのである。

 

 

<解説>⑥止滅の状態では、未だ真我独存、つまり解脱の状態ではないけれども、真我は本来の姿に還って、そこにとどまっているのである。

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2月

13日

ヨーガ・スートラ1-4

[1-4] その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。

Lacking that, misconceptions(vritti) skew our perceptions.||4||

<解説>①その他の場合というのは、止滅の状態とは違って、心のいろいろなはたらきが起こっては消えてゆく、通常の心理状態のことをいう。この時、真我(プルシャ)は自己本来の姿を見失って、その時その時の心の動きに同化した姿をとっている。

 

<解説>②真我本来の性質は変わらないけれども、その形がいろいろと変わってゆく。例えば月影が水の波に応じて変化し、水晶が花の色をうつして色を変えるようなものである。ここにわれわれの心理現象というものが成り立つ。

 

<解説>③サーンキヤ・ヨーガの哲学によれば、心の材料となっているものは無意識性のものであるから、心のはたらきはそれだけでは心理現象ではない。この無意識性の心理的素材に意識性を与えて、心理現象にするのは真我のもつ照明性、つまり意識性である。

 

<解説>④しかし、意識性だけでは無内容であるから、意識の内容を提供するのが心(チッタ)のいろいろなはたらきである。このような関係をサーンキヤ哲学は、真我(プルシャ)が覚(ブディ;最高の心理器官)に自分の輝く影を映ずること、として説明する(4-23参照)

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2月

14日

ヨーガ・スートラ1-5

【心(チッタ)のはたらき】
[1-5] 心(チッタ)のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。

There are five types of misconceptions (vrittis), some of which are more agreeable than others:||5||

 

<解説>①心の五種類のはたらきには次の節で説明される。煩悩性というのは煩悩に関連があるものということである。煩悩で包まれているもの、煩悩の心に結びつくものなどいろいろな場合が考えられる。

 

<解説>②いずれにせよ、煩悩性のものは人を輪廻(サンサーラ)の世界に束縛する性質を有し、これに反して、非煩悩性のものは人を解脱(自由)へ導く性格をもっている。

 

<解説>③煩悩については、二・三章以下に詳しく説かれている。クレーシャ(kles'a)という語を漢訳仏典で「煩悩」と訳したのは適訳というべく、クレーシャは人を煩わし、悩ますものという意味をもっている。

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2月

15日

ヨーガ・スートラ1-6

 五種類のはたらきとは

(1)正知

(2)誤謬

(3)分別知

(4)睡眠

(5)記憶

Insight, error, imaginings, deep sleep, and recollections. ||6||  

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2月

15日

ヨーガ・スートラ1-7

[1-7] 正知とは、

(1) 直接経験による知識

(2) 推理による知識

(3) 聖教に基づく知識

の三種である。

Insight arises from direct perception, conalusions, or learning that are based on reliable sources. ||7||

 

<解説>①正知(プラマーナ)という語には(1)正しい知識という意味と、(2)正しい知識を得る手段または証明の方法(シナで量と訳した)という意味がある。この正知の中へ何種類の認識方法を入れるかは、学派によって違っている。

 

<解説>②ヨーガ派はこの経文に説くように、三種類だけを正知として認めている。因明論理学の用語を使えば、(1)現量(2)比量(3)聖教量の三種である。学派によっては、この外にさらに三種の量(りょう)を加えるものがある。

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2月

16日

ヨーガ・スートラ1-8

[1-8] 誤謬とは、対象の実態に基づいていない不正な知識のことである。

Error arises from knowledge that is based on a felse mental construct. ||8||

 

<解説>誤謬(viparyaya)は因明論理では顛倒(てんどう)と訳されている。

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2月

17日

ヨーガ・スートラ1-9

[1-9] 分別知とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象を欠く判断のことである。

Imaginings are engendered by word knowledge without regard for what actually exists in the real world. ||9||

 

<解説>①分別知(vikalpa=ヴィカルパ)は正知とも違い、誤謬とも違っている。それは客観的対象に基づくものではないから、なんら実質的な内容のある判断にならない。

 

<解説>②例えば、「真我(プルシャ)の自体は霊智(caitanya=カイタニャ)である」というような判断は、真我と霊智とが同一物であるから、何ら積極的内容をもち得ない。かようないわゆる分析判断や、単に否定のみの判断などは正しい判断とも、不正な判断ともいえない。

 

<解説>③かかるに単に観念的な判断を分別知(ヴィカルパ)というのである。この種の知識は、実用的な知識として、実際生活には役立っている。分別知の定義は仏教のとは少し違っている。

 

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2月

19日

ヨーガ・スートラ1-10

[1-10] 睡眠とは、「空無」を対象とする、心のはたらきのことである。

Deep sleep is the absence of all impressions resulting from opacity in that which is mutable in human beings (chitta). ||10||   

 

<解説>①ここで睡眠(nidra=ニドラー)というのは、夢も見ないほどの深い眠りのことである。このような状態にあっても、心のはたらきはなくなっていない。

 

<解説>②サーンキャ・ヨーガの立場からいうと、自主(プラクリティ)は、三種の徳(guna=グナ;性質)すなわちエネルギーの間のダイナミックな結びつきの上に成り立っているのであるから、従って、それを根源とする心(チッタ)もまた、絶え間なく転変しつつあるのである。

 

<解説>③心は瞬時といえども転変をやめたり、存在しなくなったりはしない。その証拠に、どんなによく眠った後でも「あぁよく眠った」とか、「良く寝たので頭がはっきりした」という記憶が残るのである。それでは、熟睡のさなかには夢も見ないし、外界の物象を知覚したりしないのはなぜか?

 

<解説>④それは、その際の心のはたらきの対象となっているものが、”非存在”(abhava=アバーヴァ)という想念そのものであるからである。

 

<解説>⑤ある註釈家によれば、睡眠とは、目覚めている時や夢を見ている時のような心のはたらきがなくなることの原因であるタマス(暗黒と鈍重とを性格とするエネルギー)の徳(グナ)を対象として生じる、心のはたらきのことである。

 

<解説>⑥あるいは簡単に、ただ「存在しない」ということそのことだけを、”想念対象”とする、心のはたらきのことと解してもよい。仏教で所縁縁は四縁の中のひとつであり、心、心所の対境のことである。

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2月

20日

ヨーガ・スートラ1-11

[1-11] 記憶とは、かつて経験した対境が失われていないことである。

Recollections are engendered by the past, insofar as the relevant experience has not been eclipsed. ||11||

 

<解説>①この定義は、記憶の二面である把住(蓄積)と再生のうち、把住作用の方をあげているようにみえるが、そうではない。把住の方は、行(ぎょう;サンスカーラ)すなわち潜在意識の中に残存する印象の中の一部をなしている。

 

<解説>②かつて経験された対境の印象は潜在意識の中へ残存するのが把住の記憶である。この潜在的残存印象が消え去らないで、自分と同形の対境を再生するのが記憶である。記憶再生の時は、もとの経験とは逆で、把住する作(はた)らきよりも、把握される対象の方が主になる。

 

<解説>③もとの経験という中には、心(チッタ)の五つのはたらきのすべての場合が含まれている。すなわち、正知ないし記憶はすべて記憶の原因となるのである。記憶と夢とは、類似の心理現象であるが、夢の場合は、潜在意識内の印象が再生するとき、ビジョンとしてあらわれる。

 

<解説>④また夢はことの経験をゆがめたり、それにつけ加えたりする。

 

以上で(五つの)心のはたらきについての説明は終わるが、この五種類のはたらきの下にはまた多くのスブクラスのはたらきがあり、時と所と人に応じて、複雑多用な心理現象を表すのである。

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2月

21日

ヨーガ・スートラ1-12

〔修習(しゅうじゅう)と離欲〕

[1-12]  心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。

The state of yoga is attained via a balanece between assiduousness (abhyasa) and imperturability (vairagya). ||12||

 

<解説>修習という原語アビアーサ(abhyasa)はシナで数習(さくじゅう)とも訳し、同じしぐさを何べんとなく繰り返して、それに習熟することである。ここに修行というものの本質がある。体操を始めとして、呼吸法、瞑想法を含めたヨーガ行法はすべて、同じことを繰り返して練習することを骨子としている。修習と離欲、この二つの方法をどう使い分けて、心のはたらきの止滅をもたらすかがヨーガの根本的課題であるわけである。

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2月

22日

ヨーガ・スートラ1-13

[1-13] この二つの止滅のうち、修習(しゅうじゅう)とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。

Assiduousness means resoulutely adhering to one's practice of yoga. ||13||

 

<解説>静止(sthiti=ステイティ)というのは心(チッタ)がそのはたらきをなくして、心の流れが停止した状態をいうのであるが、しかし、ヨーガ哲学からいえば、心のエネルギーのダイナミックな転変(parinama)までがなくなるのではない。ある註釈家は、静止を仏教でいう心一境性(citta-ekagrata=しんいっきょうせい)すなわち注意が一つの対境(対象物)の上に不動にとどまっている状態と解している。これは究極的な静止状態ではない。

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2月

23日

ヨーガ・スートラ1-14

[1-14] この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。

Success can definitely be achieved via sound and continuous practice over an extended period of time, carried out in a serious and thoughtful manner. ||14||

 

<解説>厳格に実践するというのは、苦行、童貞、信、英智などを具備して、この修行に従事することである。堅固な基礎ができあがるというのは、この修行の習性ができあがって、雑念のために妨げられるようなことがなくなることである。

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2月

24日

ヨーガ・スートラ1-15

[1-15] 離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。

Imperturbability results from a balance in the consciousness, and when the desire for all things that we see or have heard of is extinguished. ||15||

 

<解説>ここで離欲(vairarya=バイラーギア)は対象に対する欲情を離れた状態のことではなくて、その状態に達した人がもつ、欲情の克服者たる自覚(vasikara-samjna)である、と定義されている。伝え聞いた対象といのは、ヴェーダなどの伝説によって伝え聞いた天上界の幸福などのことをいうのである。

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2月

25日

ヨーガ・スートラ1-16

[1-16] 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くもので、三徳そのものに対する離欲である。

The highest state of imperturbability arises from the experience of the true self; in tihs state even the basic elements of nature lose their power over us. ||16||

 

<解説>①離欲には上下の種類がある。一般に、見たり聞いたりした事柄についての離欲は低い段階の離欲である。低い離欲は、真智を得るための補助手段になるし、その相応の善い結果を生むことはできる。

 

<解説>②しかし、最後の目的たる解脱を得るためには、修行によって真我は自性(prakrti=プラクリティ)とは全く別個のものであるという真智(purusa-khyati)に到達した後、自性の構成要素である三徳(グナ)すなわち三種のエネルギーそのものに対してさえ、離欲の自覚をもたなければならない。

 

<解説>③つまり、客観的世界の根源のさかのぼってまで、これを拒否し、克服して、自己の主体性を自覚的に確立し得た時に、はじめて真我独存という至上の境地に立つことができるというのである

 

<解説>④経文3-49~50では、覚(ブディ)と真我(プルシャ)とが別個のものであるという真智を得た行者は、宇宙万有を支配し、見とおす力を得るが、そんなものに対してまでも無欲となった時に、始めてあらゆる弱点を消尽して真我独存の境地に達することができる、と説いている。

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2月

26日

ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。

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2016年

2月

27日

ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。

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2016年

2月

28日

ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。

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2016年

2月

29日

ヨーガ・スートラ1-20

[1-20] その他の人々、つまりヨーガ行者たちの(真実の)無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

And then there are some for whom trust, determination, memory and divination lay the groundwork for insight. ||20||

 

   

<解説>①堅信以下の五つの手段は、仏教の修行方法である三十七道品の中の五根(こん)、五力(りき)というグループに属する徳目(信、勤、念、定、慧)と全く同じである。

 

<解説>②堅信(sraddha=シラッダー)とは道に対する信念のことであるが、同時に清澄な心をも意味する。道に対する堅い信念があれば、やがて、道を修めようとする力強い努力(virya)が生まれる。

 

<解説>③この努力は、やがて、いろいろな戒律や信条をいつも忘れずに守ってゆく念想(smrti=スムリティ)としてみのる。念想を行じてゆくうち、おのずと雑念が消えて、三昧の心がまえがあらわれてくる。そうしてついに、世界の実相を如実に知る真智(prajna=プラジナー)が生じる。

 

<解説>④この真智をも離脱した時にはじめて無想(むそう)、無種子(むしゅじ)の三昧が完成されるのである。この間の事情については1-47以下、4-29、4-34に説かれている。

 

<解説>⑤インドの註釈家は、(以て非なるものと真実なるものとの)前記二種の無想を区別して、(1)存在を縁(原因)とするもの(bhava-pra-tyaya)ト、(2)方便を縁とするもの(upaya-pratyaya)と名付けている。

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2016年

3月

01日

ヨーガ・スートラ1-21

[熱心さの強度と成功]

[1-21] 解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、無想三昧の成功は間近い。

The goal is achieved through intensive practice. ||21||

 

<解説>熱情の原語サンヴェーガ(samvega)については、ハウエル氏の意見に従って、ジャイナ教徒ヘーマチャンドラの解釈”moksa-abhilasa”(解脱への欲求)を採用した。仏教では、この語を、生老病死等の苦の姿をつぶさに観察した結果生ずる宗教的情動(religi-ous emotion)の意味に用いている。

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-22

[1-22] 強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

This practice can be light, moderate or intensive. ||22||

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。

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2016年

3月

03日

ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。

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2016年

3月

04日

ヨーガ・スートラ1-25

[1-25] 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。

Ishavara is unmatched and is the source of all knowledge. ||25||   

 

<解説>①一切知(sarvajna=サーヴァジュナー)の種子は比較相対を許さぬはずであるから、無上とか最勝とかいう形容詞をつけるのは矛盾ではないか、という非難を予想して、インドの註釈家は苦心さんたんたる解釈を施している。しかし、本経典全体の思想構成に照らして理解するならば、むずかしい解釈は、無用の長物になる。

 

<解説>②一切知と同じ意味の語「一切知者たる力」(sarvajnatrtva)という語が3-49に出ている。ここでは、覚と真我とが別個のものであるという真知が行者の全意識をみたした時に生ずる、ヴィショーカ(visoka)と呼ばれる超自然的能力(siddhi=シッディ)の内容として、すべての世界を支配する力とすべてのことを知る力とがあげられている。

 

<解説>③さらに3-54には、やはり真智から生ずる、ターラカ(taraka)という霊能が説かれている。(3-33参照)この霊能は、あらゆるもののあらゆる在り方を対象とし、しかもそれらすべてを一時に、なんの手続きをも経ないで、知ることができる能力であると規定されている。だから、一切知は真智を実現した人のすべてに具わる力なのであるが、しかし、特に自在神には、一切知の中でも景勝なものが備わっている。こういわんとするのがこの経文のねらいであろう。

 

<解説>④種子という語は、一切知を芽生えさせる原因、または能力を意味する。一切知の代わりに「一切知者」(sarva-jna)とみても意味は通じる。要するに、ヨーガの自在神は偉大なグルであるが、バクティ信仰の対象のような全能な専制君主ではないのであって、その性格は仏陀やジャイナ教のジナの性格に似ている。一切知、一切知者の理念は多分、仏教やジャイナ教の影響を示しているであろう。

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2016年

3月

05日

ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)

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2016年

3月

06日

ヨーガ・スートラ1-27

[1-27] この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

OM is a symbol for ishvara. ||27||

 

<解説>聖音(pranava)「オーム」(om)はヴェーダ時代から神聖な音として尊ばれて来ている。始めは祭司が祭儀を行う時のうけごたえの言葉であったが、次第に神聖な意義をもつようになり、ウパニシャッドでは、宇宙の根源たるブラフマン(brahman)の象徴とされている。その後この音は特にヨーガ行法と関連して重要さを加え、オームの瞑想はヨーガの中心的な要素となる。だから、ここでこの言葉が自在神のシンボルとされているのももっともなことで、この音の実際的用法は次の経文で明らかにされる。

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2016年

3月

07日

ヨーガ・スートラ1-28

[1-28] ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

Repetition of OM (with this meaning) leads to contemplation. ||28||

 

<解説>①反復誦唱(japa)の行は、2-1、2-44に出ている読誦行(svadhyaya)の一種である。誦唱は低い声で、つぶやくようにとなえる行である。この行は、今日でも、ヨーガの瞑想の際有益な方法とされている。この経文は、誦唱と同時に自在神を念想することを勧める。自在神を念想(bhavana)するというのは、自在神の端厳な姿やその威力などを心に思い浮かべることであって、それに成功した時には、神の姿や声がヴィジョンとなって見え、聞こえてくるのである。(2-44参照)これに似た行法が、仏教の中で、念仏行として発達したことは、われわれにとって興味の深いことである。

 

<解説>②すなわち、小乗仏教では五停心観の中に念仏観が含まれ、大乗仏教では観仏三昧法、生身観法等の禅法として展開している。いずれも、如来の相好(ホトケの端厳微妙な姿は三十二相、八十種好をそなえているといわれる)を念想し、その姿を鮮明な幻影として眼のうちに見、ホトケの音声を耳に聞くに至る行法である。念想の原語バーヴァナ(bhavana)は、語源的には、ものを実現するという意味の語であって、単に抽象的な思考を持ち続けるのでなく、真理なり形像なりを具体的な形で直観することを意味しているのである。

 

<解説>③ところで、仏教でも、この行法は決して高い段階に置かれてはいない。小乗仏教の念仏観は最も初級の仏道修行の一つにすぎないし、大乗の禅法の中でも、観仏三昧や生身観は罪深き衆生(人間)が心を清め、常心を会得するための方便なのであって、これによって解脱したり、成仏したりすることはできないのである。これを以ても、ヨーガ・スートラの中の自在神祈念の法をバクティ・ヨーガと混合するのは大きなあやまりであることを知ることができる。

 

<解説>④聖音誦唱と自在神念想の二つの行法は、同時に行うのがよい。シナで盛んとなった浄土門の唱名念仏は、もとはかかる様式の念仏観であったのである。

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2016年

3月

08日

ヨーガ・スートラ1-29

[1-29] 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすことができる。

Through this practice, the immutable self is revealed and all abstacles (antaraya) are removed. ||29||    

 

<解説>内観の力を得る(pratyak-cetana-adhigama)という原語を、ある註釈家は人々内在の真我を直観する、という意味に解している。これでもわるくはないが、前記の二つの行法に対して、それ程の高い結果を期待するのは妥当でないように思われる。仏教でも、念仏観は種々の間違った見解その他の重罪を除滅するのに役立つものであるが、覚りを開くにはなお多くの段階の修行を必要とするのである。

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2016年

3月

09日

ヨーガ・スートラ1-30

【三昧に対する障害】

[1-30] 三昧に対する障害とは、(1)病気(2)無気力(3)疑(4)放逸(5)懶惰(6)執念(7)盲見(8)三昧の境地に入り得ない心理状態(9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

These obstacles (antaraya) (illness; inertia; doubt; neglect; sloth; desire; blindness; alack of goals; irresoluteness) obscure that which is immutable in human beings(chitta). ||30||

 

<解説>無気力(styana)は仏教用語で昏沈といい、心で強く望みながら、行動に出られないような心理状態。疑(samsaya)とは、二つの事柄のどちらをとるか決断がつかない気持、狐疑とか猶予とかいう語で表してもよい。放免(pramada)とは心に落着きがなく、ヨーガのように周到な注意を必要とすることはやれない性質。懶惰(alasya)は心もからだも重くて、なにもする気になれない心理状態、ものぐさ、ぶしょうなどという語がピッタリする。執念(avirati)とは、ものごとに対して欲望の強いことで、色情に限る必要はない。妄見(bhranti-darsana)とは真理に反する主義、主張、見解である。

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2016年

3月

10日

ヨーガ・スートラ1-31

[1-31] 苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

Suffering, depression, nervousness, and agitated breathing are signs of this this lack of clarity. ||31||

 

<解説①>苦悩(duhkha)は肉体、精神の苦しみを併せて意味する。不満(daurmanasya)とは、欲求がはばまれた時に生ずる興奮の心理のこと。あらい息づかい(svasa-prasvasa)の原語はただ入息と出息の意味であるが註釈家は、三昧に入ろうとする人の意思に反して、息を吸ったり、吐いたりする衝動が起こることで、三昧を妨げる発作の意味に解している。三昧の行中においては、静かで長い規則正しい呼吸を必要とするのであるが、心が乱れている時は、呼吸は不規則となりがちである。

 

<解説②>ヨーロッパのある学者の説によると通例のヨーロッパ人の呼吸は長短不規則な上に、1分間に30回もなされるという。ヨーガで呼吸の練習をするのは、瞑想に適する呼吸の習慣をつけるためである。呼吸の乱れと心の散動とは相伴っているから、呼吸を調えなければ、心を落ち着かせることはできないのである。

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2016年

3月

11日

ヨーガ・スートラ1-32

【心の散動状態を対治する法】

[1-32] 以上のような散動の心理状態を対治するためには、なにかある一つの原理を対象とする修習が必要である。

He who practices assiduously overcomes these obstacles. ||32||

 

<解説>①対治(pratisecha)というのは、医学で対症療法というのと同じように、一つ一つの散動心理を抑え、滅ぼしていくことである。原理(tattva)というのは真理、実在、実態等の意味を包含する。ここでは何かある事柄を択んで、それに注意を向けること(nivesana)を説くのが主眼であるから、その事柄の何たるかにこだわる必要はない。次の諸経文に列挙する事柄は、注意の対象に択ばれるのに適当なものとしてスートラの著者が推奨したいものなのである。

 

<解説>②ある註釈家は「唯一の実在」という意味に読み、自在神への祈念がここに勧められていると解釈している。しかし、次の数節との関連上、この解釈は不適当である。修習(abhyasa)については、すでに1-13に説かれている。修習とは、ある一つの思念の対象へ、心の焦点を、くり返してくり返し合わせることによって、ついには、心のはたらきのすべてを静止させてしまうことである。

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2016年

3月

12日

ヨーガ・スートラ1-33

 【心の静澄を得る方法】

[1-33] 慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる。

All that in mutable in human beings (chitta) is harmonized through the cultivation of love (maitri), helofulness (karuna), conviviality (mudita) and imperturbability (upeksha) in situations that are happy, painful, successful or unfortunate. ||33||

   

<解説>①慈、悲、喜、捨の四つの情操は仏教で四無量心とよばれるものである。その中で慈(maitri=マーイトリ)は他人の幸福をともに悦ぶ心、悲(karuna=カルナー)は他人の不幸をともに悲しむ心、喜(mudita=ムディター)は他人の善い行為をともに慶賀する心、捨(upeksa=ウペークシャー)は他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心である。これらの情操または心術を、ケース・バイ・ケースに念想の対象として、その心をくり返し、くり返して思い浮かべ、それのイメージがハッキリと心の中に形を結ぶようにする。

 

<解説>②この念想を行うことによって、これらの心術の逆の悪い心術は次第に起こらなくなるが、それだけでなく、三昧に必要な静かで澄みきった心が現われてくるのである。ヨーガの行者にとっては、心の静澄(prasada=プラサーダ)が生ずることが主たる願いである。仏教でも、四無量心は十二門禅の中の一つとしてあつかわれている。

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2016年

3月

13日

ヨーガ・スートラ1-34

[1-34] あるいは、気を出す法と、それを止めておく法とによっても、心の静澄が得られる。

The goal can be attained through breathing exercises involving holding your breath before exholing. ||34||

 

<解説>①この経文はいわゆる調気法(pranayama=プラーナーヤーマ)を説いたものである。本経1-31でうたってあったように、粗い不規則な息づかいは散動心の随伴現象であるから、逆に息を調整して心の静澄を得ようとするのが調気法である。ここで気を出す法(pracchardana)というのは、恐らく、時間をはかってゆっくりとそして充分に気息(いき)を吐き出してゆくことをいみしているのであろう。それを止めておく法(vidharana)というのは、胸にみちた気息を留保しておく法、すなわち後世クムバカ(kumbhaka)とよばれる調気法をさすものと思われるが、気息を出しきった後にしばらく吸わないでいることとも見ることができる。

 

<解説>②後の解釈に従うならば、通例の調気法とは違った調気法を説いていることになる。調気については2-49以下にも説かれている規定を比較してみる必要がある。もっとも気(prana)という語は、気息(svasa)と同一ではなく、気息の中に含まれている生命の素のようなものをいみしているから、気息の出入へ直接に結びつて解釈する必要はないとも考えられる(2-49参照)。  

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2016年

3月

14日

ヨーガ・スートラ1-35

[1-35] あるいは、いろいろな感覚対象をもった意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)をいや応なく不動にし、心の静澄をきたすものである(3-36参照)。

- Or by contemplating things and impressions, which promotes mental stability and consolidation ||35||

  

<解説>①この経文は、インドの註釈家の意見に従えば、行者がいろいろな感覚器官へ注意を集中することによって、それぞれの器官に微妙な感覚が生ずることをいうのだという。例えば鼻のさきに意識を集中すると、神々しい妙香の感覚が生じ、また舌端に集中すると微妙な味覚、口蓋に集中すると色の感覚、舌の中央に意識を集中すると触覚、舌根に集中すると音覚が生ずる。かような霊的な感覚を経験すると、行者の信念は確固たるものになる。

 

<解説>②書物や師匠や論証だけでは、どうしても、靴を隔ててかゆいところを搔くようなもどかしさを禁じ得ないが、前記のような感覚的な直接経験をすると、玄奥な哲理に対しても不動の信念を確立することができる。このようにインドのヨーギーは、この経文を3-25などに関連させて解釈している。意(manas=マナス)については2-53参照。

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2016年

3月

15日

ヨーガ・スートラ1-36

[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。

- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||

    

<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。

 

<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。

 

<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。

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3月

16日

ヨーガ・スートラ1-37

[1-37] あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、静澄が生ずる。

- Or if what is mutable in human beings (chitta) is no longer the handmaiden of desire. ||37||

    

<解説>註釈家はすべて、聖者のを対象として、それに凝念すると解している。聖者の心と断ってある理由はわからないけれども、仏教でも、観仏三昧の中に法身観法というのがあって、仏の内面性というべき、十力、四無所畏、大慈大悲等を観想することになっている。

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2016年

3月

17日

ヨーガ・スートラ1-38

[1-38] あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

- Or through knowledge that is derived from a nocturnal dream. ||38||

    

<解説>夢で得た体験といえば、神の端厳美妙な姿などを夢みることである。かかる夢を見たならば、眼ざめて後も忘れないようにして、それに心をこめる。熟睡で得た経験といえば、安らかな熟睡の後に残るみち足りた心地良い気分のことである。こういうものをも、定心すなわち静澄な心境を得る手段として利用することを忘れていない。同じような、行き届いた教育指導は仏教の禅法の中にも見られる。

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2016年

3月

18日

ヨーガ・スートラ1-39

[1-39] あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる。

- Or through contemplation (dhyana) of love. ||39||

 

<解説>ここでは瞑想の対象の種類は問わない。行者が好むもの、行者の心を引くものであれば、外界の物であろうと、体内の臓腑であろうと、抽象的なものであろうと、具体的なものであろうとかまわない。ただし、その対象が悪いものではないことだけが条件である。

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2016年

3月

19日

ヨーガ・スートラ1-40

[1-40] 以上のような仕方で心の静澄に達した行者には、極微から極大に及ぶすべてのことがらに対する支配力が現われる。

A person who attains this goal has mastery over everything, from the smallest atom to the entire universe. ||40||

 

<解説>ここで支配力(vasikara=ヴァシーカーラ)というのは、行者がどんな微細なものでも、どんな大きなものでも得る力のことである。(3-44参照)。

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2016年

3月

20日

ヨーガ・スートラ1-41

【定の定義と種類】

[1-41] かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。

Once the misconception (vritti) have been minimized, everything that is mutable in human beings (chitta) becomes as clear as a diamond, and perceptions, the perceived, and perceiver are melded with each oter. -One builds on and colors the other. This is enlightenment (samapatti). ||41||

 

<解説>定(samapatti=サマパッティ)は三昧(samadhi=サマーディ)というのと内容においては違わない。三昧の定義は3-3に出ている。それと、ここの定の定義とは表現の仕方は違っているが、内容においては合致している。まさしく、われわれが直観というのと同じ心理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態が、定とか三昧とかいわれる境地である。

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2016年

3月

21日

ヨーガ・スートラ1-42

【有尋定】

[1-42] 定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。

In conjunction with word and object knowledge, or imagination, this state is savitarka samapatti. ||42||

 

<解説>①有尋定(savitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)はいちばん初歩的な段階の定で、心のあらいはたらきが残っている。このことをいまの経文では、語と対象と観念とを区別する分別知が混じているもの、と定義したのである。分別知(vikalpa=ヴィカルパ)についてはすでに経文1-9が定義を下しているが、ここでは、一つの事柄について、それを表現する語と、その語によって示される客体と、それの観念とを区別する知識であると定義されている。真知は語、客体、観念の三者の未分の上に成り立つ無分別知でなければならない。区別される三者のどれもが実体を対象としない言語上の知にすぎない。次の無尋定の定義と比較すればわかるように、有尋定は未だ主客の対立を存する定心の段階なのである。この定義は仏教の分別知の定義にやや近い。1-17参照。

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2016年

3月

24日

ヨーガ・スートラ1-43

【無尋定】

[1-43] 定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である(3-3参照)。

Once all previous impressions (smriti) have been purged and one's own nature is clearly perceptible, then only the object of contemplation emanates light. This is nirvitarka samapatti. ||43||

 

<解説>無尋定(nirvitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)とは、要するに、主客未分の心理状態のことであるが、ここではこの心理を、記憶のはたらきの消失ということから説明している。詳しく言うと、言葉と意味との慣用的なつながり、伝承や推理に基づく知識など、いわゆる分別知の内容である記憶がすっかりなくなると、心はその対象である客体自体に染まって、まるで知るものとしての自体を捨てて客体そのものに成りきってしまったかのような観を呈する。これが無尋定といわれるものである。尋(vitarka)については1-17に説かれている。

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2016年

3月

25日

ヨーガ・スートラ1-44

[有伺定と無伺定]

[1-44] 前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。

If the object of concentration is of a subtle nature, these two described states are known as savichraara and nirvichara sampatti. ||44||

 

<解説>①微妙な存在を対象とする心のはたらきが伺(vicara=ヴィチアーラ)である。微妙な存在というのは何かについては次の経文が説明する。

 

<解説>②有伺定(savicara-samapatti=サヴィチャラサマーパッティ)というのは、その対象となる微妙な存在が現象(dharma=ダルマ)として顕現し、従って時間、空間、原因等の経験範疇によって限定されている場合の定心をいう。この場合には、主観と客観の対立が見られる。無伺定(nirvicara-samadhi=ニルヴィチャーラサマーディ)というのは、その対象となる微妙な存在が、過現未のいずれの時形においても現象せず、従って時間、空間、因果等の経験範疇に限定されないで、物自体(dharmin=ダルミン)のままで顕現する場合の定心をいう。このように、微妙な客体(artha=アルタ)の実体が赤裸々に三昧智の中に顕現する時には、三昧智はその対象に染まって、自己の実体をなくしてしまったかのように見えるのである。(P251以下参照)

 

<解説>③定を尋と伺のはたらきの有無によって分ける仕方は仏教の禅法の中にも見られる。仏教では天上界を欲界、色界、無色界の三階級に分ける。欲界はわれわれ人間の世界やそれ以下の世界と同じく、欲情によって支配される世界で、その境遇がわれわれのよりもすぐれているだけである。しかし、色界、無色界となると、禅定を修行し、定心を得るに成功した人しか行けない世界であって、この世界の住民は生まれながらにして定心をそなえている。この色界、無色界はその各々が四つの段階から成っている。この二界八段に対して、仏教は三つの禅定を次の図のように配当する。

色界 → 初禅天、二禅天、三禅天、四禅天

無色界→ 空無辺処地、識無辺処地、無所有処地、非想非々想処地 

(初禅天のみ有尋有伺定と無尋有伺定 他は無尋有伺定)

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2016年

3月

26日

ヨーガ・スートラ1-45

[1-45] 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な緒存在を総括した言葉である。

An object can be subtle to the point of indefinability. ||45||

 

<解説>この経文は前の1-44の「微妙な対象」という語の説明である。ここでは万物の根源である自性(mula-prakrti=ムーラ・プラクリティ)のことをアリンダ(alinga)という語で表している。アリンガとは「それ以上の質量因の中へ没し去らないもの」(無没)の意味である。自性に至るまでの形而上学的存在とは数論哲学でいうところの、五唯、我慢、覚(大)、自性の緒存在をいうのである。十一根と五大は単に結果(変異)であって、原因の意味を持たないから、ここに数えられない。真我は独立の実在で、自性から展開する質量因(upadana=ウパーダーナ)の系列に属していないから、「微妙な対象」のうちには入らない。(2-19参照)

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2016年

3月

27日

ヨーガ・スートラ1-46

[有種子三昧]
[1-46] 以上が有種子三昧である。

All of these states of consciousness are called sabija samadhi. ||46||

 

<解説>有種子(sa-bija=サビージャ)という語の意味は、三様に解釈されている。一つには、外的実在(bahir-vastu)すなわち客体を対象に持つという意味、二には、一般に対象を有する意味、三には、未だ究極の真智に達していないから輪廻の世界の束縛の因子を残しているという意味である。有種子三昧という語は、有想三昧という語と区別して用いられているように見える。有種子三昧は、この経文で有尋、無尋、有伺、無伺の四つの禅定の総称ということになっているのに対して、有想三昧は本経1-17によって有尋、有伺、有楽、有我想の四種と計算されているからである。ある註釈家は、両者を混合して、有尋、無尋、有伺、無伺、有楽、唯楽、有我想、唯我想の八定を以て有想三昧としている。禅定の分類にはいろいろな仕方があったことが考えられる。

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2016年

3月

28日

ヨーガ・スートラ1-47

[無伺三昧の極致と真智の発現]
[1-47] 有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。

If you regularly experience the clearest of the four aforementioned states known as nirvichara samapatti, then you are about to experience a state of absolute clarity. ||47||

 

<解説>無垢清浄(vaisaradya=ヴァイシャーラデャ)とは秋空のように澄明な状態をいう。無伺定を熱心に修習すると、覚のサットヴァ性が他の二つのグナのはたらきを抑えて、常に透明で不動な状態を保つようになる。そうすると、内面の静澄(adhyatma-prasada)という状態が実現する。内面の静澄とはいかなるものか?については次の三つの経文が説明しているが、註釈家によれば、それは客体の実相を対象とする真智が思考の過程を経ないで突然に輝き出る直観的体験のことであるという。

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2016年

3月

29日

ヨーガ・スートラ1-48

[1-48] 内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

- Then consciousness will be filled with truth. ||48||

 

<解説>真理のみを保有するという語のリタムバラ(rtambhara)はこの場合の直観智(prajna=プラジュニャー)の名称だとされている。仏教などでも、例えば大円鏡智などというように、悟りの智にいろいろな名称をつける。それによって真智の内容の特殊性を示そうとするのである。ここで真理という語のリタ(rta)はインド・ゲルマン時代からの古い経歴をもつ語である。リグ・ヴェーダでは、この語は「神の秩序」「永久不変の法則」などを意味したが、転じて「真理」「真実」(satya=サティア)を意味するようになる。

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2016年

3月

30日

ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。

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2016年

3月

31日

ヨーガ・スートラ1-50

[1-50] この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

This experience gives rise to an impression (samskara) that supplants other impressions (samskara). ||50||

 

<解説>①行とはすべてに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのをいうのである。ヨーガ心理学では、この行すなわち潜在印象という概念は大切な役割をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩(本経1-5参照)の原因となる。他の一つは業遺存(本経1-24参照)といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。

 

<解説>②ところで、無伺三昧中に生ずる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心(vyt-thana-cita)のはたらきによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現われることをふせぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現われる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり、果となって、連続してゆくことになる。ところがこの三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力をもっているから、心のはたらきを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務(adhikara=アディカーラ)から解放する。任務から解放され、業報を離れた心は、真我に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智(viveka-khyati)が生ずることによって到達されるのである(2-26,2-27,3-52,3-54,4-26,4-29参照)。

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2016年

4月

01日

ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。

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2016年

2月

10日

ヨーガ・スートラ1-1、1-2(三昧章)

これから、パタンジャリ作と伝えられる『ヨーガ・スートラ』を、佐保田鶴治先生の解説本で紹介します。

ヨーガ・スートラは以下の4つの章よりなる。

 

1・三昧章 Samadhi-Pada

2・禅那章 Sadhana-Pada

3・自在力章 Vibhuti-Pada

4・独存位章 Kaivalya-Pada

 

第1章「三昧章」

[1-1] これよりヨーガの解説をしよう。

Yoga in the here and now: an introduction to the study and practice of yoga||1||

【ヨーガの定義】

 

[1-2] ヨーガとは心の働きを止滅することである。

When you are in a state of yoga, all misconceptions (vrittis) that can exist in the mutable aspect of human beings (chitta) disappear.||2||

 

<解説>①心のはたらきについて、1-6には次の5種類をあげている。

1正しい知識

2誤った知識

3観念的知識

4睡眠

5記憶

 

<解説>②これらの心のはたらきを抑止して、消滅させる心理操作がヨーガである。ヨーガ心理学で心(チッタ)というときは、深層心理を含めた全ての心理の根源であるものを意味する。仏教では心(チッタ)は心王と訳されている。

 

<解説>③心(チッタ)の心理学的、哲学的意味については、さきに行って追々と明らかになる。心とそのはたらきとの関係はヨーガ思想では、実体とそれの現れの関係、例えば、湖の水と波のような関係として考えられている。

 

<解説>④止滅(ニローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしていく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。

 

<解説>⑤ここでは、止滅は三昧(サマディ)、ヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(うそう;心理作用が残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅と呼ばれている。

 

 

<解説>⑥このニローダ(止滅)という言葉は仏教的な匂いを持っている。

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2016年

2月

12日

ヨーガ・スートラ1-3

【真我】

[1-3] 心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たる真我は自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。

For finding our true self (drashtu) entails insight into our own nature.||3||

<解説>①ここではサーンキヤ(「数論(すろん)」)哲学の二元論が前提となっている。この哲学では究極の原理または実在として、自性(プラクリティ)と真我(プルシャ)の二元を立てる。自性(プラクリティ)は客観的な宇宙、万物の根源となる唯一の実在である。

 

<解説>②物質的な存在はもちろん、人間の心理的な器官も、すべて自性(プラクリティ)から展開したものである。これに反して、真我(プルシャ)は主観の主観ともいうべき純粋な精神性の原理で、各個人の本当の自我である。真我は、客観的存在のありさまを見ているだけの純粋な観照者なのである。

 

<解説>③われわれの心理現象というのは、自性から展開した無意識性の器官の変様の上に真我の純粋な意識性、照明性が映じた結果生じたものである。真我自身の姿といえば、独立自存な絶対者で、時間、空間の制約をうけず、つねに平和と光明に満ちた存在である。

 

<解説>④これが各人の真実の我の本来の在り方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を現実に受けているような錯覚を起こしているのが、われわれの現状である。

 

<解説>⑤この錯覚をどうして取り去ることができるか?これが課題なのである。ヨーガのねらいとするところは、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリヤ)を実現するにある。インド思想一般の言葉でいえば、ヨーガの目的は解脱(モクシャ)にあるのである。

 

 

<解説>⑥止滅の状態では、未だ真我独存、つまり解脱の状態ではないけれども、真我は本来の姿に還って、そこにとどまっているのである。

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2016年

2月

13日

ヨーガ・スートラ1-4

[1-4] その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。

Lacking that, misconceptions(vritti) skew our perceptions.||4||

<解説>①その他の場合というのは、止滅の状態とは違って、心のいろいろなはたらきが起こっては消えてゆく、通常の心理状態のことをいう。この時、真我(プルシャ)は自己本来の姿を見失って、その時その時の心の動きに同化した姿をとっている。

 

<解説>②真我本来の性質は変わらないけれども、その形がいろいろと変わってゆく。例えば月影が水の波に応じて変化し、水晶が花の色をうつして色を変えるようなものである。ここにわれわれの心理現象というものが成り立つ。

 

<解説>③サーンキヤ・ヨーガの哲学によれば、心の材料となっているものは無意識性のものであるから、心のはたらきはそれだけでは心理現象ではない。この無意識性の心理的素材に意識性を与えて、心理現象にするのは真我のもつ照明性、つまり意識性である。

 

<解説>④しかし、意識性だけでは無内容であるから、意識の内容を提供するのが心(チッタ)のいろいろなはたらきである。このような関係をサーンキヤ哲学は、真我(プルシャ)が覚(ブディ;最高の心理器官)に自分の輝く影を映ずること、として説明する(4-23参照)

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2016年

2月

14日

ヨーガ・スートラ1-5

【心(チッタ)のはたらき】
[1-5] 心(チッタ)のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。

There are five types of misconceptions (vrittis), some of which are more agreeable than others:||5||

 

<解説>①心の五種類のはたらきには次の節で説明される。煩悩性というのは煩悩に関連があるものということである。煩悩で包まれているもの、煩悩の心に結びつくものなどいろいろな場合が考えられる。

 

<解説>②いずれにせよ、煩悩性のものは人を輪廻(サンサーラ)の世界に束縛する性質を有し、これに反して、非煩悩性のものは人を解脱(自由)へ導く性格をもっている。

 

<解説>③煩悩については、二・三章以下に詳しく説かれている。クレーシャ(kles'a)という語を漢訳仏典で「煩悩」と訳したのは適訳というべく、クレーシャは人を煩わし、悩ますものという意味をもっている。

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-6

 五種類のはたらきとは

(1)正知

(2)誤謬

(3)分別知

(4)睡眠

(5)記憶

Insight, error, imaginings, deep sleep, and recollections. ||6||  

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2月

15日

ヨーガ・スートラ1-7

[1-7] 正知とは、

(1) 直接経験による知識

(2) 推理による知識

(3) 聖教に基づく知識

の三種である。

Insight arises from direct perception, conalusions, or learning that are based on reliable sources. ||7||

 

<解説>①正知(プラマーナ)という語には(1)正しい知識という意味と、(2)正しい知識を得る手段または証明の方法(シナで量と訳した)という意味がある。この正知の中へ何種類の認識方法を入れるかは、学派によって違っている。

 

<解説>②ヨーガ派はこの経文に説くように、三種類だけを正知として認めている。因明論理学の用語を使えば、(1)現量(2)比量(3)聖教量の三種である。学派によっては、この外にさらに三種の量(りょう)を加えるものがある。

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2016年

2月

16日

ヨーガ・スートラ1-8

[1-8] 誤謬とは、対象の実態に基づいていない不正な知識のことである。

Error arises from knowledge that is based on a felse mental construct. ||8||

 

<解説>誤謬(viparyaya)は因明論理では顛倒(てんどう)と訳されている。

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2月

17日

ヨーガ・スートラ1-9

[1-9] 分別知とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象を欠く判断のことである。

Imaginings are engendered by word knowledge without regard for what actually exists in the real world. ||9||

 

<解説>①分別知(vikalpa=ヴィカルパ)は正知とも違い、誤謬とも違っている。それは客観的対象に基づくものではないから、なんら実質的な内容のある判断にならない。

 

<解説>②例えば、「真我(プルシャ)の自体は霊智(caitanya=カイタニャ)である」というような判断は、真我と霊智とが同一物であるから、何ら積極的内容をもち得ない。かようないわゆる分析判断や、単に否定のみの判断などは正しい判断とも、不正な判断ともいえない。

 

<解説>③かかるに単に観念的な判断を分別知(ヴィカルパ)というのである。この種の知識は、実用的な知識として、実際生活には役立っている。分別知の定義は仏教のとは少し違っている。

 

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2016年

2月

19日

ヨーガ・スートラ1-10

[1-10] 睡眠とは、「空無」を対象とする、心のはたらきのことである。

Deep sleep is the absence of all impressions resulting from opacity in that which is mutable in human beings (chitta). ||10||   

 

<解説>①ここで睡眠(nidra=ニドラー)というのは、夢も見ないほどの深い眠りのことである。このような状態にあっても、心のはたらきはなくなっていない。

 

<解説>②サーンキャ・ヨーガの立場からいうと、自主(プラクリティ)は、三種の徳(guna=グナ;性質)すなわちエネルギーの間のダイナミックな結びつきの上に成り立っているのであるから、従って、それを根源とする心(チッタ)もまた、絶え間なく転変しつつあるのである。

 

<解説>③心は瞬時といえども転変をやめたり、存在しなくなったりはしない。その証拠に、どんなによく眠った後でも「あぁよく眠った」とか、「良く寝たので頭がはっきりした」という記憶が残るのである。それでは、熟睡のさなかには夢も見ないし、外界の物象を知覚したりしないのはなぜか?

 

<解説>④それは、その際の心のはたらきの対象となっているものが、”非存在”(abhava=アバーヴァ)という想念そのものであるからである。

 

<解説>⑤ある註釈家によれば、睡眠とは、目覚めている時や夢を見ている時のような心のはたらきがなくなることの原因であるタマス(暗黒と鈍重とを性格とするエネルギー)の徳(グナ)を対象として生じる、心のはたらきのことである。

 

<解説>⑥あるいは簡単に、ただ「存在しない」ということそのことだけを、”想念対象”とする、心のはたらきのことと解してもよい。仏教で所縁縁は四縁の中のひとつであり、心、心所の対境のことである。

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2月

20日

ヨーガ・スートラ1-11

[1-11] 記憶とは、かつて経験した対境が失われていないことである。

Recollections are engendered by the past, insofar as the relevant experience has not been eclipsed. ||11||

 

<解説>①この定義は、記憶の二面である把住(蓄積)と再生のうち、把住作用の方をあげているようにみえるが、そうではない。把住の方は、行(ぎょう;サンスカーラ)すなわち潜在意識の中に残存する印象の中の一部をなしている。

 

<解説>②かつて経験された対境の印象は潜在意識の中へ残存するのが把住の記憶である。この潜在的残存印象が消え去らないで、自分と同形の対境を再生するのが記憶である。記憶再生の時は、もとの経験とは逆で、把住する作(はた)らきよりも、把握される対象の方が主になる。

 

<解説>③もとの経験という中には、心(チッタ)の五つのはたらきのすべての場合が含まれている。すなわち、正知ないし記憶はすべて記憶の原因となるのである。記憶と夢とは、類似の心理現象であるが、夢の場合は、潜在意識内の印象が再生するとき、ビジョンとしてあらわれる。

 

<解説>④また夢はことの経験をゆがめたり、それにつけ加えたりする。

 

以上で(五つの)心のはたらきについての説明は終わるが、この五種類のはたらきの下にはまた多くのスブクラスのはたらきがあり、時と所と人に応じて、複雑多用な心理現象を表すのである。

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2016年

2月

21日

ヨーガ・スートラ1-12

〔修習(しゅうじゅう)と離欲〕

[1-12]  心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。

The state of yoga is attained via a balanece between assiduousness (abhyasa) and imperturability (vairagya). ||12||

 

<解説>修習という原語アビアーサ(abhyasa)はシナで数習(さくじゅう)とも訳し、同じしぐさを何べんとなく繰り返して、それに習熟することである。ここに修行というものの本質がある。体操を始めとして、呼吸法、瞑想法を含めたヨーガ行法はすべて、同じことを繰り返して練習することを骨子としている。修習と離欲、この二つの方法をどう使い分けて、心のはたらきの止滅をもたらすかがヨーガの根本的課題であるわけである。

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2016年

2月

22日

ヨーガ・スートラ1-13

[1-13] この二つの止滅のうち、修習(しゅうじゅう)とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。

Assiduousness means resoulutely adhering to one's practice of yoga. ||13||

 

<解説>静止(sthiti=ステイティ)というのは心(チッタ)がそのはたらきをなくして、心の流れが停止した状態をいうのであるが、しかし、ヨーガ哲学からいえば、心のエネルギーのダイナミックな転変(parinama)までがなくなるのではない。ある註釈家は、静止を仏教でいう心一境性(citta-ekagrata=しんいっきょうせい)すなわち注意が一つの対境(対象物)の上に不動にとどまっている状態と解している。これは究極的な静止状態ではない。

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2016年

2月

23日

ヨーガ・スートラ1-14

[1-14] この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。

Success can definitely be achieved via sound and continuous practice over an extended period of time, carried out in a serious and thoughtful manner. ||14||

 

<解説>厳格に実践するというのは、苦行、童貞、信、英智などを具備して、この修行に従事することである。堅固な基礎ができあがるというのは、この修行の習性ができあがって、雑念のために妨げられるようなことがなくなることである。

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2016年

2月

24日

ヨーガ・スートラ1-15

[1-15] 離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。

Imperturbability results from a balance in the consciousness, and when the desire for all things that we see or have heard of is extinguished. ||15||

 

<解説>ここで離欲(vairarya=バイラーギア)は対象に対する欲情を離れた状態のことではなくて、その状態に達した人がもつ、欲情の克服者たる自覚(vasikara-samjna)である、と定義されている。伝え聞いた対象といのは、ヴェーダなどの伝説によって伝え聞いた天上界の幸福などのことをいうのである。

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2016年

2月

25日

ヨーガ・スートラ1-16

[1-16] 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くもので、三徳そのものに対する離欲である。

The highest state of imperturbability arises from the experience of the true self; in tihs state even the basic elements of nature lose their power over us. ||16||

 

<解説>①離欲には上下の種類がある。一般に、見たり聞いたりした事柄についての離欲は低い段階の離欲である。低い離欲は、真智を得るための補助手段になるし、その相応の善い結果を生むことはできる。

 

<解説>②しかし、最後の目的たる解脱を得るためには、修行によって真我は自性(prakrti=プラクリティ)とは全く別個のものであるという真智(purusa-khyati)に到達した後、自性の構成要素である三徳(グナ)すなわち三種のエネルギーそのものに対してさえ、離欲の自覚をもたなければならない。

 

<解説>③つまり、客観的世界の根源のさかのぼってまで、これを拒否し、克服して、自己の主体性を自覚的に確立し得た時に、はじめて真我独存という至上の境地に立つことができるというのである

 

<解説>④経文3-49~50では、覚(ブディ)と真我(プルシャ)とが別個のものであるという真智を得た行者は、宇宙万有を支配し、見とおす力を得るが、そんなものに対してまでも無欲となった時に、始めてあらゆる弱点を消尽して真我独存の境地に達することができる、と説いている。

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2016年

2月

26日

ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。

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2016年

2月

27日

ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。

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2016年

2月

28日

ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。

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2016年

2月

29日

ヨーガ・スートラ1-20

[1-20] その他の人々、つまりヨーガ行者たちの(真実の)無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

And then there are some for whom trust, determination, memory and divination lay the groundwork for insight. ||20||

 

   

<解説>①堅信以下の五つの手段は、仏教の修行方法である三十七道品の中の五根(こん)、五力(りき)というグループに属する徳目(信、勤、念、定、慧)と全く同じである。

 

<解説>②堅信(sraddha=シラッダー)とは道に対する信念のことであるが、同時に清澄な心をも意味する。道に対する堅い信念があれば、やがて、道を修めようとする力強い努力(virya)が生まれる。

 

<解説>③この努力は、やがて、いろいろな戒律や信条をいつも忘れずに守ってゆく念想(smrti=スムリティ)としてみのる。念想を行じてゆくうち、おのずと雑念が消えて、三昧の心がまえがあらわれてくる。そうしてついに、世界の実相を如実に知る真智(prajna=プラジナー)が生じる。

 

<解説>④この真智をも離脱した時にはじめて無想(むそう)、無種子(むしゅじ)の三昧が完成されるのである。この間の事情については1-47以下、4-29、4-34に説かれている。

 

<解説>⑤インドの註釈家は、(以て非なるものと真実なるものとの)前記二種の無想を区別して、(1)存在を縁(原因)とするもの(bhava-pra-tyaya)ト、(2)方便を縁とするもの(upaya-pratyaya)と名付けている。

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2016年

3月

01日

ヨーガ・スートラ1-21

[熱心さの強度と成功]

[1-21] 解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、無想三昧の成功は間近い。

The goal is achieved through intensive practice. ||21||

 

<解説>熱情の原語サンヴェーガ(samvega)については、ハウエル氏の意見に従って、ジャイナ教徒ヘーマチャンドラの解釈”moksa-abhilasa”(解脱への欲求)を採用した。仏教では、この語を、生老病死等の苦の姿をつぶさに観察した結果生ずる宗教的情動(religi-ous emotion)の意味に用いている。

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-22

[1-22] 強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

This practice can be light, moderate or intensive. ||22||

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。

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2016年

3月

03日

ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。

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2016年

3月

04日

ヨーガ・スートラ1-25

[1-25] 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。

Ishavara is unmatched and is the source of all knowledge. ||25||   

 

<解説>①一切知(sarvajna=サーヴァジュナー)の種子は比較相対を許さぬはずであるから、無上とか最勝とかいう形容詞をつけるのは矛盾ではないか、という非難を予想して、インドの註釈家は苦心さんたんたる解釈を施している。しかし、本経典全体の思想構成に照らして理解するならば、むずかしい解釈は、無用の長物になる。

 

<解説>②一切知と同じ意味の語「一切知者たる力」(sarvajnatrtva)という語が3-49に出ている。ここでは、覚と真我とが別個のものであるという真知が行者の全意識をみたした時に生ずる、ヴィショーカ(visoka)と呼ばれる超自然的能力(siddhi=シッディ)の内容として、すべての世界を支配する力とすべてのことを知る力とがあげられている。

 

<解説>③さらに3-54には、やはり真智から生ずる、ターラカ(taraka)という霊能が説かれている。(3-33参照)この霊能は、あらゆるもののあらゆる在り方を対象とし、しかもそれらすべてを一時に、なんの手続きをも経ないで、知ることができる能力であると規定されている。だから、一切知は真智を実現した人のすべてに具わる力なのであるが、しかし、特に自在神には、一切知の中でも景勝なものが備わっている。こういわんとするのがこの経文のねらいであろう。

 

<解説>④種子という語は、一切知を芽生えさせる原因、または能力を意味する。一切知の代わりに「一切知者」(sarva-jna)とみても意味は通じる。要するに、ヨーガの自在神は偉大なグルであるが、バクティ信仰の対象のような全能な専制君主ではないのであって、その性格は仏陀やジャイナ教のジナの性格に似ている。一切知、一切知者の理念は多分、仏教やジャイナ教の影響を示しているであろう。

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2016年

3月

05日

ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)

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2016年

3月

06日

ヨーガ・スートラ1-27

[1-27] この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

OM is a symbol for ishvara. ||27||

 

<解説>聖音(pranava)「オーム」(om)はヴェーダ時代から神聖な音として尊ばれて来ている。始めは祭司が祭儀を行う時のうけごたえの言葉であったが、次第に神聖な意義をもつようになり、ウパニシャッドでは、宇宙の根源たるブラフマン(brahman)の象徴とされている。その後この音は特にヨーガ行法と関連して重要さを加え、オームの瞑想はヨーガの中心的な要素となる。だから、ここでこの言葉が自在神のシンボルとされているのももっともなことで、この音の実際的用法は次の経文で明らかにされる。

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2016年

3月

07日

ヨーガ・スートラ1-28

[1-28] ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

Repetition of OM (with this meaning) leads to contemplation. ||28||

 

<解説>①反復誦唱(japa)の行は、2-1、2-44に出ている読誦行(svadhyaya)の一種である。誦唱は低い声で、つぶやくようにとなえる行である。この行は、今日でも、ヨーガの瞑想の際有益な方法とされている。この経文は、誦唱と同時に自在神を念想することを勧める。自在神を念想(bhavana)するというのは、自在神の端厳な姿やその威力などを心に思い浮かべることであって、それに成功した時には、神の姿や声がヴィジョンとなって見え、聞こえてくるのである。(2-44参照)これに似た行法が、仏教の中で、念仏行として発達したことは、われわれにとって興味の深いことである。

 

<解説>②すなわち、小乗仏教では五停心観の中に念仏観が含まれ、大乗仏教では観仏三昧法、生身観法等の禅法として展開している。いずれも、如来の相好(ホトケの端厳微妙な姿は三十二相、八十種好をそなえているといわれる)を念想し、その姿を鮮明な幻影として眼のうちに見、ホトケの音声を耳に聞くに至る行法である。念想の原語バーヴァナ(bhavana)は、語源的には、ものを実現するという意味の語であって、単に抽象的な思考を持ち続けるのでなく、真理なり形像なりを具体的な形で直観することを意味しているのである。

 

<解説>③ところで、仏教でも、この行法は決して高い段階に置かれてはいない。小乗仏教の念仏観は最も初級の仏道修行の一つにすぎないし、大乗の禅法の中でも、観仏三昧や生身観は罪深き衆生(人間)が心を清め、常心を会得するための方便なのであって、これによって解脱したり、成仏したりすることはできないのである。これを以ても、ヨーガ・スートラの中の自在神祈念の法をバクティ・ヨーガと混合するのは大きなあやまりであることを知ることができる。

 

<解説>④聖音誦唱と自在神念想の二つの行法は、同時に行うのがよい。シナで盛んとなった浄土門の唱名念仏は、もとはかかる様式の念仏観であったのである。

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2016年

3月

08日

ヨーガ・スートラ1-29

[1-29] 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすことができる。

Through this practice, the immutable self is revealed and all abstacles (antaraya) are removed. ||29||    

 

<解説>内観の力を得る(pratyak-cetana-adhigama)という原語を、ある註釈家は人々内在の真我を直観する、という意味に解している。これでもわるくはないが、前記の二つの行法に対して、それ程の高い結果を期待するのは妥当でないように思われる。仏教でも、念仏観は種々の間違った見解その他の重罪を除滅するのに役立つものであるが、覚りを開くにはなお多くの段階の修行を必要とするのである。

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2016年

3月

09日

ヨーガ・スートラ1-30

【三昧に対する障害】

[1-30] 三昧に対する障害とは、(1)病気(2)無気力(3)疑(4)放逸(5)懶惰(6)執念(7)盲見(8)三昧の境地に入り得ない心理状態(9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

These obstacles (antaraya) (illness; inertia; doubt; neglect; sloth; desire; blindness; alack of goals; irresoluteness) obscure that which is immutable in human beings(chitta). ||30||

 

<解説>無気力(styana)は仏教用語で昏沈といい、心で強く望みながら、行動に出られないような心理状態。疑(samsaya)とは、二つの事柄のどちらをとるか決断がつかない気持、狐疑とか猶予とかいう語で表してもよい。放免(pramada)とは心に落着きがなく、ヨーガのように周到な注意を必要とすることはやれない性質。懶惰(alasya)は心もからだも重くて、なにもする気になれない心理状態、ものぐさ、ぶしょうなどという語がピッタリする。執念(avirati)とは、ものごとに対して欲望の強いことで、色情に限る必要はない。妄見(bhranti-darsana)とは真理に反する主義、主張、見解である。

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2016年

3月

10日

ヨーガ・スートラ1-31

[1-31] 苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

Suffering, depression, nervousness, and agitated breathing are signs of this this lack of clarity. ||31||

 

<解説①>苦悩(duhkha)は肉体、精神の苦しみを併せて意味する。不満(daurmanasya)とは、欲求がはばまれた時に生ずる興奮の心理のこと。あらい息づかい(svasa-prasvasa)の原語はただ入息と出息の意味であるが註釈家は、三昧に入ろうとする人の意思に反して、息を吸ったり、吐いたりする衝動が起こることで、三昧を妨げる発作の意味に解している。三昧の行中においては、静かで長い規則正しい呼吸を必要とするのであるが、心が乱れている時は、呼吸は不規則となりがちである。

 

<解説②>ヨーロッパのある学者の説によると通例のヨーロッパ人の呼吸は長短不規則な上に、1分間に30回もなされるという。ヨーガで呼吸の練習をするのは、瞑想に適する呼吸の習慣をつけるためである。呼吸の乱れと心の散動とは相伴っているから、呼吸を調えなければ、心を落ち着かせることはできないのである。

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2016年

3月

11日

ヨーガ・スートラ1-32

【心の散動状態を対治する法】

[1-32] 以上のような散動の心理状態を対治するためには、なにかある一つの原理を対象とする修習が必要である。

He who practices assiduously overcomes these obstacles. ||32||

 

<解説>①対治(pratisecha)というのは、医学で対症療法というのと同じように、一つ一つの散動心理を抑え、滅ぼしていくことである。原理(tattva)というのは真理、実在、実態等の意味を包含する。ここでは何かある事柄を択んで、それに注意を向けること(nivesana)を説くのが主眼であるから、その事柄の何たるかにこだわる必要はない。次の諸経文に列挙する事柄は、注意の対象に択ばれるのに適当なものとしてスートラの著者が推奨したいものなのである。

 

<解説>②ある註釈家は「唯一の実在」という意味に読み、自在神への祈念がここに勧められていると解釈している。しかし、次の数節との関連上、この解釈は不適当である。修習(abhyasa)については、すでに1-13に説かれている。修習とは、ある一つの思念の対象へ、心の焦点を、くり返してくり返し合わせることによって、ついには、心のはたらきのすべてを静止させてしまうことである。

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2016年

3月

12日

ヨーガ・スートラ1-33

 【心の静澄を得る方法】

[1-33] 慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる。

All that in mutable in human beings (chitta) is harmonized through the cultivation of love (maitri), helofulness (karuna), conviviality (mudita) and imperturbability (upeksha) in situations that are happy, painful, successful or unfortunate. ||33||

   

<解説>①慈、悲、喜、捨の四つの情操は仏教で四無量心とよばれるものである。その中で慈(maitri=マーイトリ)は他人の幸福をともに悦ぶ心、悲(karuna=カルナー)は他人の不幸をともに悲しむ心、喜(mudita=ムディター)は他人の善い行為をともに慶賀する心、捨(upeksa=ウペークシャー)は他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心である。これらの情操または心術を、ケース・バイ・ケースに念想の対象として、その心をくり返し、くり返して思い浮かべ、それのイメージがハッキリと心の中に形を結ぶようにする。

 

<解説>②この念想を行うことによって、これらの心術の逆の悪い心術は次第に起こらなくなるが、それだけでなく、三昧に必要な静かで澄みきった心が現われてくるのである。ヨーガの行者にとっては、心の静澄(prasada=プラサーダ)が生ずることが主たる願いである。仏教でも、四無量心は十二門禅の中の一つとしてあつかわれている。

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2016年

3月

13日

ヨーガ・スートラ1-34

[1-34] あるいは、気を出す法と、それを止めておく法とによっても、心の静澄が得られる。

The goal can be attained through breathing exercises involving holding your breath before exholing. ||34||

 

<解説>①この経文はいわゆる調気法(pranayama=プラーナーヤーマ)を説いたものである。本経1-31でうたってあったように、粗い不規則な息づかいは散動心の随伴現象であるから、逆に息を調整して心の静澄を得ようとするのが調気法である。ここで気を出す法(pracchardana)というのは、恐らく、時間をはかってゆっくりとそして充分に気息(いき)を吐き出してゆくことをいみしているのであろう。それを止めておく法(vidharana)というのは、胸にみちた気息を留保しておく法、すなわち後世クムバカ(kumbhaka)とよばれる調気法をさすものと思われるが、気息を出しきった後にしばらく吸わないでいることとも見ることができる。

 

<解説>②後の解釈に従うならば、通例の調気法とは違った調気法を説いていることになる。調気については2-49以下にも説かれている規定を比較してみる必要がある。もっとも気(prana)という語は、気息(svasa)と同一ではなく、気息の中に含まれている生命の素のようなものをいみしているから、気息の出入へ直接に結びつて解釈する必要はないとも考えられる(2-49参照)。  

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2016年

3月

14日

ヨーガ・スートラ1-35

[1-35] あるいは、いろいろな感覚対象をもった意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)をいや応なく不動にし、心の静澄をきたすものである(3-36参照)。

- Or by contemplating things and impressions, which promotes mental stability and consolidation ||35||

  

<解説>①この経文は、インドの註釈家の意見に従えば、行者がいろいろな感覚器官へ注意を集中することによって、それぞれの器官に微妙な感覚が生ずることをいうのだという。例えば鼻のさきに意識を集中すると、神々しい妙香の感覚が生じ、また舌端に集中すると微妙な味覚、口蓋に集中すると色の感覚、舌の中央に意識を集中すると触覚、舌根に集中すると音覚が生ずる。かような霊的な感覚を経験すると、行者の信念は確固たるものになる。

 

<解説>②書物や師匠や論証だけでは、どうしても、靴を隔ててかゆいところを搔くようなもどかしさを禁じ得ないが、前記のような感覚的な直接経験をすると、玄奥な哲理に対しても不動の信念を確立することができる。このようにインドのヨーギーは、この経文を3-25などに関連させて解釈している。意(manas=マナス)については2-53参照。

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3月

15日

ヨーガ・スートラ1-36

[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。

- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||

    

<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。

 

<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。

 

<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。

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3月

16日

ヨーガ・スートラ1-37

[1-37] あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、静澄が生ずる。

- Or if what is mutable in human beings (chitta) is no longer the handmaiden of desire. ||37||

    

<解説>註釈家はすべて、聖者のを対象として、それに凝念すると解している。聖者の心と断ってある理由はわからないけれども、仏教でも、観仏三昧の中に法身観法というのがあって、仏の内面性というべき、十力、四無所畏、大慈大悲等を観想することになっている。

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2016年

3月

17日

ヨーガ・スートラ1-38

[1-38] あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

- Or through knowledge that is derived from a nocturnal dream. ||38||

    

<解説>夢で得た体験といえば、神の端厳美妙な姿などを夢みることである。かかる夢を見たならば、眼ざめて後も忘れないようにして、それに心をこめる。熟睡で得た経験といえば、安らかな熟睡の後に残るみち足りた心地良い気分のことである。こういうものをも、定心すなわち静澄な心境を得る手段として利用することを忘れていない。同じような、行き届いた教育指導は仏教の禅法の中にも見られる。

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3月

18日

ヨーガ・スートラ1-39

[1-39] あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる。

- Or through contemplation (dhyana) of love. ||39||

 

<解説>ここでは瞑想の対象の種類は問わない。行者が好むもの、行者の心を引くものであれば、外界の物であろうと、体内の臓腑であろうと、抽象的なものであろうと、具体的なものであろうとかまわない。ただし、その対象が悪いものではないことだけが条件である。

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3月

19日

ヨーガ・スートラ1-40

[1-40] 以上のような仕方で心の静澄に達した行者には、極微から極大に及ぶすべてのことがらに対する支配力が現われる。

A person who attains this goal has mastery over everything, from the smallest atom to the entire universe. ||40||

 

<解説>ここで支配力(vasikara=ヴァシーカーラ)というのは、行者がどんな微細なものでも、どんな大きなものでも得る力のことである。(3-44参照)。

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3月

20日

ヨーガ・スートラ1-41

【定の定義と種類】

[1-41] かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。

Once the misconception (vritti) have been minimized, everything that is mutable in human beings (chitta) becomes as clear as a diamond, and perceptions, the perceived, and perceiver are melded with each oter. -One builds on and colors the other. This is enlightenment (samapatti). ||41||

 

<解説>定(samapatti=サマパッティ)は三昧(samadhi=サマーディ)というのと内容においては違わない。三昧の定義は3-3に出ている。それと、ここの定の定義とは表現の仕方は違っているが、内容においては合致している。まさしく、われわれが直観というのと同じ心理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態が、定とか三昧とかいわれる境地である。

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3月

21日

ヨーガ・スートラ1-42

【有尋定】

[1-42] 定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。

In conjunction with word and object knowledge, or imagination, this state is savitarka samapatti. ||42||

 

<解説>①有尋定(savitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)はいちばん初歩的な段階の定で、心のあらいはたらきが残っている。このことをいまの経文では、語と対象と観念とを区別する分別知が混じているもの、と定義したのである。分別知(vikalpa=ヴィカルパ)についてはすでに経文1-9が定義を下しているが、ここでは、一つの事柄について、それを表現する語と、その語によって示される客体と、それの観念とを区別する知識であると定義されている。真知は語、客体、観念の三者の未分の上に成り立つ無分別知でなければならない。区別される三者のどれもが実体を対象としない言語上の知にすぎない。次の無尋定の定義と比較すればわかるように、有尋定は未だ主客の対立を存する定心の段階なのである。この定義は仏教の分別知の定義にやや近い。1-17参照。

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3月

24日

ヨーガ・スートラ1-43

【無尋定】

[1-43] 定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である(3-3参照)。

Once all previous impressions (smriti) have been purged and one's own nature is clearly perceptible, then only the object of contemplation emanates light. This is nirvitarka samapatti. ||43||

 

<解説>無尋定(nirvitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)とは、要するに、主客未分の心理状態のことであるが、ここではこの心理を、記憶のはたらきの消失ということから説明している。詳しく言うと、言葉と意味との慣用的なつながり、伝承や推理に基づく知識など、いわゆる分別知の内容である記憶がすっかりなくなると、心はその対象である客体自体に染まって、まるで知るものとしての自体を捨てて客体そのものに成りきってしまったかのような観を呈する。これが無尋定といわれるものである。尋(vitarka)については1-17に説かれている。

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3月

25日

ヨーガ・スートラ1-44

[有伺定と無伺定]

[1-44] 前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。

If the object of concentration is of a subtle nature, these two described states are known as savichraara and nirvichara sampatti. ||44||

 

<解説>①微妙な存在を対象とする心のはたらきが伺(vicara=ヴィチアーラ)である。微妙な存在というのは何かについては次の経文が説明する。

 

<解説>②有伺定(savicara-samapatti=サヴィチャラサマーパッティ)というのは、その対象となる微妙な存在が現象(dharma=ダルマ)として顕現し、従って時間、空間、原因等の経験範疇によって限定されている場合の定心をいう。この場合には、主観と客観の対立が見られる。無伺定(nirvicara-samadhi=ニルヴィチャーラサマーディ)というのは、その対象となる微妙な存在が、過現未のいずれの時形においても現象せず、従って時間、空間、因果等の経験範疇に限定されないで、物自体(dharmin=ダルミン)のままで顕現する場合の定心をいう。このように、微妙な客体(artha=アルタ)の実体が赤裸々に三昧智の中に顕現する時には、三昧智はその対象に染まって、自己の実体をなくしてしまったかのように見えるのである。(P251以下参照)

 

<解説>③定を尋と伺のはたらきの有無によって分ける仕方は仏教の禅法の中にも見られる。仏教では天上界を欲界、色界、無色界の三階級に分ける。欲界はわれわれ人間の世界やそれ以下の世界と同じく、欲情によって支配される世界で、その境遇がわれわれのよりもすぐれているだけである。しかし、色界、無色界となると、禅定を修行し、定心を得るに成功した人しか行けない世界であって、この世界の住民は生まれながらにして定心をそなえている。この色界、無色界はその各々が四つの段階から成っている。この二界八段に対して、仏教は三つの禅定を次の図のように配当する。

色界 → 初禅天、二禅天、三禅天、四禅天

無色界→ 空無辺処地、識無辺処地、無所有処地、非想非々想処地 

(初禅天のみ有尋有伺定と無尋有伺定 他は無尋有伺定)

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3月

26日

ヨーガ・スートラ1-45

[1-45] 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な緒存在を総括した言葉である。

An object can be subtle to the point of indefinability. ||45||

 

<解説>この経文は前の1-44の「微妙な対象」という語の説明である。ここでは万物の根源である自性(mula-prakrti=ムーラ・プラクリティ)のことをアリンダ(alinga)という語で表している。アリンガとは「それ以上の質量因の中へ没し去らないもの」(無没)の意味である。自性に至るまでの形而上学的存在とは数論哲学でいうところの、五唯、我慢、覚(大)、自性の緒存在をいうのである。十一根と五大は単に結果(変異)であって、原因の意味を持たないから、ここに数えられない。真我は独立の実在で、自性から展開する質量因(upadana=ウパーダーナ)の系列に属していないから、「微妙な対象」のうちには入らない。(2-19参照)

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3月

27日

ヨーガ・スートラ1-46

[有種子三昧]
[1-46] 以上が有種子三昧である。

All of these states of consciousness are called sabija samadhi. ||46||

 

<解説>有種子(sa-bija=サビージャ)という語の意味は、三様に解釈されている。一つには、外的実在(bahir-vastu)すなわち客体を対象に持つという意味、二には、一般に対象を有する意味、三には、未だ究極の真智に達していないから輪廻の世界の束縛の因子を残しているという意味である。有種子三昧という語は、有想三昧という語と区別して用いられているように見える。有種子三昧は、この経文で有尋、無尋、有伺、無伺の四つの禅定の総称ということになっているのに対して、有想三昧は本経1-17によって有尋、有伺、有楽、有我想の四種と計算されているからである。ある註釈家は、両者を混合して、有尋、無尋、有伺、無伺、有楽、唯楽、有我想、唯我想の八定を以て有想三昧としている。禅定の分類にはいろいろな仕方があったことが考えられる。

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3月

28日

ヨーガ・スートラ1-47

[無伺三昧の極致と真智の発現]
[1-47] 有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。

If you regularly experience the clearest of the four aforementioned states known as nirvichara samapatti, then you are about to experience a state of absolute clarity. ||47||

 

<解説>無垢清浄(vaisaradya=ヴァイシャーラデャ)とは秋空のように澄明な状態をいう。無伺定を熱心に修習すると、覚のサットヴァ性が他の二つのグナのはたらきを抑えて、常に透明で不動な状態を保つようになる。そうすると、内面の静澄(adhyatma-prasada)という状態が実現する。内面の静澄とはいかなるものか?については次の三つの経文が説明しているが、註釈家によれば、それは客体の実相を対象とする真智が思考の過程を経ないで突然に輝き出る直観的体験のことであるという。

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3月

29日

ヨーガ・スートラ1-48

[1-48] 内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

- Then consciousness will be filled with truth. ||48||

 

<解説>真理のみを保有するという語のリタムバラ(rtambhara)はこの場合の直観智(prajna=プラジュニャー)の名称だとされている。仏教などでも、例えば大円鏡智などというように、悟りの智にいろいろな名称をつける。それによって真智の内容の特殊性を示そうとするのである。ここで真理という語のリタ(rta)はインド・ゲルマン時代からの古い経歴をもつ語である。リグ・ヴェーダでは、この語は「神の秩序」「永久不変の法則」などを意味したが、転じて「真理」「真実」(satya=サティア)を意味するようになる。

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3月

30日

ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。

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3月

31日

ヨーガ・スートラ1-50

[1-50] この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

This experience gives rise to an impression (samskara) that supplants other impressions (samskara). ||50||

 

<解説>①行とはすべてに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのをいうのである。ヨーガ心理学では、この行すなわち潜在印象という概念は大切な役割をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩(本経1-5参照)の原因となる。他の一つは業遺存(本経1-24参照)といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。

 

<解説>②ところで、無伺三昧中に生ずる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心(vyt-thana-cita)のはたらきによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現われることをふせぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現われる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり、果となって、連続してゆくことになる。ところがこの三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力をもっているから、心のはたらきを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務(adhikara=アディカーラ)から解放する。任務から解放され、業報を離れた心は、真我に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智(viveka-khyati)が生ずることによって到達されるのである(2-26,2-27,3-52,3-54,4-26,4-29参照)。

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2016年

4月

01日

ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。

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2016年

2月

10日

ヨーガ・スートラ1-1、1-2(三昧章)

これから、パタンジャリ作と伝えられる『ヨーガ・スートラ』を、佐保田鶴治先生の解説本で紹介します。

ヨーガ・スートラは以下の4つの章よりなる。

 

1・三昧章 Samadhi-Pada

2・禅那章 Sadhana-Pada

3・自在力章 Vibhuti-Pada

4・独存位章 Kaivalya-Pada

 

第1章「三昧章」

[1-1] これよりヨーガの解説をしよう。

Yoga in the here and now: an introduction to the study and practice of yoga||1||

【ヨーガの定義】

 

[1-2] ヨーガとは心の働きを止滅することである。

When you are in a state of yoga, all misconceptions (vrittis) that can exist in the mutable aspect of human beings (chitta) disappear.||2||

 

<解説>①心のはたらきについて、1-6には次の5種類をあげている。

1正しい知識

2誤った知識

3観念的知識

4睡眠

5記憶

 

<解説>②これらの心のはたらきを抑止して、消滅させる心理操作がヨーガである。ヨーガ心理学で心(チッタ)というときは、深層心理を含めた全ての心理の根源であるものを意味する。仏教では心(チッタ)は心王と訳されている。

 

<解説>③心(チッタ)の心理学的、哲学的意味については、さきに行って追々と明らかになる。心とそのはたらきとの関係はヨーガ思想では、実体とそれの現れの関係、例えば、湖の水と波のような関係として考えられている。

 

<解説>④止滅(ニローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしていく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。

 

<解説>⑤ここでは、止滅は三昧(サマディ)、ヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(うそう;心理作用が残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅と呼ばれている。

 

 

<解説>⑥このニローダ(止滅)という言葉は仏教的な匂いを持っている。

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2016年

2月

12日

ヨーガ・スートラ1-3

【真我】

[1-3] 心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たる真我は自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。

For finding our true self (drashtu) entails insight into our own nature.||3||

<解説>①ここではサーンキヤ(「数論(すろん)」)哲学の二元論が前提となっている。この哲学では究極の原理または実在として、自性(プラクリティ)と真我(プルシャ)の二元を立てる。自性(プラクリティ)は客観的な宇宙、万物の根源となる唯一の実在である。

 

<解説>②物質的な存在はもちろん、人間の心理的な器官も、すべて自性(プラクリティ)から展開したものである。これに反して、真我(プルシャ)は主観の主観ともいうべき純粋な精神性の原理で、各個人の本当の自我である。真我は、客観的存在のありさまを見ているだけの純粋な観照者なのである。

 

<解説>③われわれの心理現象というのは、自性から展開した無意識性の器官の変様の上に真我の純粋な意識性、照明性が映じた結果生じたものである。真我自身の姿といえば、独立自存な絶対者で、時間、空間の制約をうけず、つねに平和と光明に満ちた存在である。

 

<解説>④これが各人の真実の我の本来の在り方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を現実に受けているような錯覚を起こしているのが、われわれの現状である。

 

<解説>⑤この錯覚をどうして取り去ることができるか?これが課題なのである。ヨーガのねらいとするところは、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリヤ)を実現するにある。インド思想一般の言葉でいえば、ヨーガの目的は解脱(モクシャ)にあるのである。

 

 

<解説>⑥止滅の状態では、未だ真我独存、つまり解脱の状態ではないけれども、真我は本来の姿に還って、そこにとどまっているのである。

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2016年

2月

13日

ヨーガ・スートラ1-4

[1-4] その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。

Lacking that, misconceptions(vritti) skew our perceptions.||4||

<解説>①その他の場合というのは、止滅の状態とは違って、心のいろいろなはたらきが起こっては消えてゆく、通常の心理状態のことをいう。この時、真我(プルシャ)は自己本来の姿を見失って、その時その時の心の動きに同化した姿をとっている。

 

<解説>②真我本来の性質は変わらないけれども、その形がいろいろと変わってゆく。例えば月影が水の波に応じて変化し、水晶が花の色をうつして色を変えるようなものである。ここにわれわれの心理現象というものが成り立つ。

 

<解説>③サーンキヤ・ヨーガの哲学によれば、心の材料となっているものは無意識性のものであるから、心のはたらきはそれだけでは心理現象ではない。この無意識性の心理的素材に意識性を与えて、心理現象にするのは真我のもつ照明性、つまり意識性である。

 

<解説>④しかし、意識性だけでは無内容であるから、意識の内容を提供するのが心(チッタ)のいろいろなはたらきである。このような関係をサーンキヤ哲学は、真我(プルシャ)が覚(ブディ;最高の心理器官)に自分の輝く影を映ずること、として説明する(4-23参照)

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2016年

2月

14日

ヨーガ・スートラ1-5

【心(チッタ)のはたらき】
[1-5] 心(チッタ)のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。

There are five types of misconceptions (vrittis), some of which are more agreeable than others:||5||

 

<解説>①心の五種類のはたらきには次の節で説明される。煩悩性というのは煩悩に関連があるものということである。煩悩で包まれているもの、煩悩の心に結びつくものなどいろいろな場合が考えられる。

 

<解説>②いずれにせよ、煩悩性のものは人を輪廻(サンサーラ)の世界に束縛する性質を有し、これに反して、非煩悩性のものは人を解脱(自由)へ導く性格をもっている。

 

<解説>③煩悩については、二・三章以下に詳しく説かれている。クレーシャ(kles'a)という語を漢訳仏典で「煩悩」と訳したのは適訳というべく、クレーシャは人を煩わし、悩ますものという意味をもっている。

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-6

 五種類のはたらきとは

(1)正知

(2)誤謬

(3)分別知

(4)睡眠

(5)記憶

Insight, error, imaginings, deep sleep, and recollections. ||6||  

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-7

[1-7] 正知とは、

(1) 直接経験による知識

(2) 推理による知識

(3) 聖教に基づく知識

の三種である。

Insight arises from direct perception, conalusions, or learning that are based on reliable sources. ||7||

 

<解説>①正知(プラマーナ)という語には(1)正しい知識という意味と、(2)正しい知識を得る手段または証明の方法(シナで量と訳した)という意味がある。この正知の中へ何種類の認識方法を入れるかは、学派によって違っている。

 

<解説>②ヨーガ派はこの経文に説くように、三種類だけを正知として認めている。因明論理学の用語を使えば、(1)現量(2)比量(3)聖教量の三種である。学派によっては、この外にさらに三種の量(りょう)を加えるものがある。

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2016年

2月

16日

ヨーガ・スートラ1-8

[1-8] 誤謬とは、対象の実態に基づいていない不正な知識のことである。

Error arises from knowledge that is based on a felse mental construct. ||8||

 

<解説>誤謬(viparyaya)は因明論理では顛倒(てんどう)と訳されている。

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2016年

2月

17日

ヨーガ・スートラ1-9

[1-9] 分別知とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象を欠く判断のことである。

Imaginings are engendered by word knowledge without regard for what actually exists in the real world. ||9||

 

<解説>①分別知(vikalpa=ヴィカルパ)は正知とも違い、誤謬とも違っている。それは客観的対象に基づくものではないから、なんら実質的な内容のある判断にならない。

 

<解説>②例えば、「真我(プルシャ)の自体は霊智(caitanya=カイタニャ)である」というような判断は、真我と霊智とが同一物であるから、何ら積極的内容をもち得ない。かようないわゆる分析判断や、単に否定のみの判断などは正しい判断とも、不正な判断ともいえない。

 

<解説>③かかるに単に観念的な判断を分別知(ヴィカルパ)というのである。この種の知識は、実用的な知識として、実際生活には役立っている。分別知の定義は仏教のとは少し違っている。

 

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2016年

2月

19日

ヨーガ・スートラ1-10

[1-10] 睡眠とは、「空無」を対象とする、心のはたらきのことである。

Deep sleep is the absence of all impressions resulting from opacity in that which is mutable in human beings (chitta). ||10||   

 

<解説>①ここで睡眠(nidra=ニドラー)というのは、夢も見ないほどの深い眠りのことである。このような状態にあっても、心のはたらきはなくなっていない。

 

<解説>②サーンキャ・ヨーガの立場からいうと、自主(プラクリティ)は、三種の徳(guna=グナ;性質)すなわちエネルギーの間のダイナミックな結びつきの上に成り立っているのであるから、従って、それを根源とする心(チッタ)もまた、絶え間なく転変しつつあるのである。

 

<解説>③心は瞬時といえども転変をやめたり、存在しなくなったりはしない。その証拠に、どんなによく眠った後でも「あぁよく眠った」とか、「良く寝たので頭がはっきりした」という記憶が残るのである。それでは、熟睡のさなかには夢も見ないし、外界の物象を知覚したりしないのはなぜか?

 

<解説>④それは、その際の心のはたらきの対象となっているものが、”非存在”(abhava=アバーヴァ)という想念そのものであるからである。

 

<解説>⑤ある註釈家によれば、睡眠とは、目覚めている時や夢を見ている時のような心のはたらきがなくなることの原因であるタマス(暗黒と鈍重とを性格とするエネルギー)の徳(グナ)を対象として生じる、心のはたらきのことである。

 

<解説>⑥あるいは簡単に、ただ「存在しない」ということそのことだけを、”想念対象”とする、心のはたらきのことと解してもよい。仏教で所縁縁は四縁の中のひとつであり、心、心所の対境のことである。

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2月

20日

ヨーガ・スートラ1-11

[1-11] 記憶とは、かつて経験した対境が失われていないことである。

Recollections are engendered by the past, insofar as the relevant experience has not been eclipsed. ||11||

 

<解説>①この定義は、記憶の二面である把住(蓄積)と再生のうち、把住作用の方をあげているようにみえるが、そうではない。把住の方は、行(ぎょう;サンスカーラ)すなわち潜在意識の中に残存する印象の中の一部をなしている。

 

<解説>②かつて経験された対境の印象は潜在意識の中へ残存するのが把住の記憶である。この潜在的残存印象が消え去らないで、自分と同形の対境を再生するのが記憶である。記憶再生の時は、もとの経験とは逆で、把住する作(はた)らきよりも、把握される対象の方が主になる。

 

<解説>③もとの経験という中には、心(チッタ)の五つのはたらきのすべての場合が含まれている。すなわち、正知ないし記憶はすべて記憶の原因となるのである。記憶と夢とは、類似の心理現象であるが、夢の場合は、潜在意識内の印象が再生するとき、ビジョンとしてあらわれる。

 

<解説>④また夢はことの経験をゆがめたり、それにつけ加えたりする。

 

以上で(五つの)心のはたらきについての説明は終わるが、この五種類のはたらきの下にはまた多くのスブクラスのはたらきがあり、時と所と人に応じて、複雑多用な心理現象を表すのである。

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2月

21日

ヨーガ・スートラ1-12

〔修習(しゅうじゅう)と離欲〕

[1-12]  心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。

The state of yoga is attained via a balanece between assiduousness (abhyasa) and imperturability (vairagya). ||12||

 

<解説>修習という原語アビアーサ(abhyasa)はシナで数習(さくじゅう)とも訳し、同じしぐさを何べんとなく繰り返して、それに習熟することである。ここに修行というものの本質がある。体操を始めとして、呼吸法、瞑想法を含めたヨーガ行法はすべて、同じことを繰り返して練習することを骨子としている。修習と離欲、この二つの方法をどう使い分けて、心のはたらきの止滅をもたらすかがヨーガの根本的課題であるわけである。

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2月

22日

ヨーガ・スートラ1-13

[1-13] この二つの止滅のうち、修習(しゅうじゅう)とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。

Assiduousness means resoulutely adhering to one's practice of yoga. ||13||

 

<解説>静止(sthiti=ステイティ)というのは心(チッタ)がそのはたらきをなくして、心の流れが停止した状態をいうのであるが、しかし、ヨーガ哲学からいえば、心のエネルギーのダイナミックな転変(parinama)までがなくなるのではない。ある註釈家は、静止を仏教でいう心一境性(citta-ekagrata=しんいっきょうせい)すなわち注意が一つの対境(対象物)の上に不動にとどまっている状態と解している。これは究極的な静止状態ではない。

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2月

23日

ヨーガ・スートラ1-14

[1-14] この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。

Success can definitely be achieved via sound and continuous practice over an extended period of time, carried out in a serious and thoughtful manner. ||14||

 

<解説>厳格に実践するというのは、苦行、童貞、信、英智などを具備して、この修行に従事することである。堅固な基礎ができあがるというのは、この修行の習性ができあがって、雑念のために妨げられるようなことがなくなることである。

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2月

24日

ヨーガ・スートラ1-15

[1-15] 離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。

Imperturbability results from a balance in the consciousness, and when the desire for all things that we see or have heard of is extinguished. ||15||

 

<解説>ここで離欲(vairarya=バイラーギア)は対象に対する欲情を離れた状態のことではなくて、その状態に達した人がもつ、欲情の克服者たる自覚(vasikara-samjna)である、と定義されている。伝え聞いた対象といのは、ヴェーダなどの伝説によって伝え聞いた天上界の幸福などのことをいうのである。

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2月

25日

ヨーガ・スートラ1-16

[1-16] 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くもので、三徳そのものに対する離欲である。

The highest state of imperturbability arises from the experience of the true self; in tihs state even the basic elements of nature lose their power over us. ||16||

 

<解説>①離欲には上下の種類がある。一般に、見たり聞いたりした事柄についての離欲は低い段階の離欲である。低い離欲は、真智を得るための補助手段になるし、その相応の善い結果を生むことはできる。

 

<解説>②しかし、最後の目的たる解脱を得るためには、修行によって真我は自性(prakrti=プラクリティ)とは全く別個のものであるという真智(purusa-khyati)に到達した後、自性の構成要素である三徳(グナ)すなわち三種のエネルギーそのものに対してさえ、離欲の自覚をもたなければならない。

 

<解説>③つまり、客観的世界の根源のさかのぼってまで、これを拒否し、克服して、自己の主体性を自覚的に確立し得た時に、はじめて真我独存という至上の境地に立つことができるというのである

 

<解説>④経文3-49~50では、覚(ブディ)と真我(プルシャ)とが別個のものであるという真智を得た行者は、宇宙万有を支配し、見とおす力を得るが、そんなものに対してまでも無欲となった時に、始めてあらゆる弱点を消尽して真我独存の境地に達することができる、と説いている。

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2月

26日

ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。

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2016年

2月

27日

ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。

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2016年

2月

28日

ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。

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2016年

2月

29日

ヨーガ・スートラ1-20

[1-20] その他の人々、つまりヨーガ行者たちの(真実の)無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

And then there are some for whom trust, determination, memory and divination lay the groundwork for insight. ||20||

 

   

<解説>①堅信以下の五つの手段は、仏教の修行方法である三十七道品の中の五根(こん)、五力(りき)というグループに属する徳目(信、勤、念、定、慧)と全く同じである。

 

<解説>②堅信(sraddha=シラッダー)とは道に対する信念のことであるが、同時に清澄な心をも意味する。道に対する堅い信念があれば、やがて、道を修めようとする力強い努力(virya)が生まれる。

 

<解説>③この努力は、やがて、いろいろな戒律や信条をいつも忘れずに守ってゆく念想(smrti=スムリティ)としてみのる。念想を行じてゆくうち、おのずと雑念が消えて、三昧の心がまえがあらわれてくる。そうしてついに、世界の実相を如実に知る真智(prajna=プラジナー)が生じる。

 

<解説>④この真智をも離脱した時にはじめて無想(むそう)、無種子(むしゅじ)の三昧が完成されるのである。この間の事情については1-47以下、4-29、4-34に説かれている。

 

<解説>⑤インドの註釈家は、(以て非なるものと真実なるものとの)前記二種の無想を区別して、(1)存在を縁(原因)とするもの(bhava-pra-tyaya)ト、(2)方便を縁とするもの(upaya-pratyaya)と名付けている。

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2016年

3月

01日

ヨーガ・スートラ1-21

[熱心さの強度と成功]

[1-21] 解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、無想三昧の成功は間近い。

The goal is achieved through intensive practice. ||21||

 

<解説>熱情の原語サンヴェーガ(samvega)については、ハウエル氏の意見に従って、ジャイナ教徒ヘーマチャンドラの解釈”moksa-abhilasa”(解脱への欲求)を採用した。仏教では、この語を、生老病死等の苦の姿をつぶさに観察した結果生ずる宗教的情動(religi-ous emotion)の意味に用いている。

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-22

[1-22] 強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

This practice can be light, moderate or intensive. ||22||

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。

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2016年

3月

03日

ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。

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2016年

3月

04日

ヨーガ・スートラ1-25

[1-25] 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。

Ishavara is unmatched and is the source of all knowledge. ||25||   

 

<解説>①一切知(sarvajna=サーヴァジュナー)の種子は比較相対を許さぬはずであるから、無上とか最勝とかいう形容詞をつけるのは矛盾ではないか、という非難を予想して、インドの註釈家は苦心さんたんたる解釈を施している。しかし、本経典全体の思想構成に照らして理解するならば、むずかしい解釈は、無用の長物になる。

 

<解説>②一切知と同じ意味の語「一切知者たる力」(sarvajnatrtva)という語が3-49に出ている。ここでは、覚と真我とが別個のものであるという真知が行者の全意識をみたした時に生ずる、ヴィショーカ(visoka)と呼ばれる超自然的能力(siddhi=シッディ)の内容として、すべての世界を支配する力とすべてのことを知る力とがあげられている。

 

<解説>③さらに3-54には、やはり真智から生ずる、ターラカ(taraka)という霊能が説かれている。(3-33参照)この霊能は、あらゆるもののあらゆる在り方を対象とし、しかもそれらすべてを一時に、なんの手続きをも経ないで、知ることができる能力であると規定されている。だから、一切知は真智を実現した人のすべてに具わる力なのであるが、しかし、特に自在神には、一切知の中でも景勝なものが備わっている。こういわんとするのがこの経文のねらいであろう。

 

<解説>④種子という語は、一切知を芽生えさせる原因、または能力を意味する。一切知の代わりに「一切知者」(sarva-jna)とみても意味は通じる。要するに、ヨーガの自在神は偉大なグルであるが、バクティ信仰の対象のような全能な専制君主ではないのであって、その性格は仏陀やジャイナ教のジナの性格に似ている。一切知、一切知者の理念は多分、仏教やジャイナ教の影響を示しているであろう。

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2016年

3月

05日

ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)

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2016年

3月

06日

ヨーガ・スートラ1-27

[1-27] この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

OM is a symbol for ishvara. ||27||

 

<解説>聖音(pranava)「オーム」(om)はヴェーダ時代から神聖な音として尊ばれて来ている。始めは祭司が祭儀を行う時のうけごたえの言葉であったが、次第に神聖な意義をもつようになり、ウパニシャッドでは、宇宙の根源たるブラフマン(brahman)の象徴とされている。その後この音は特にヨーガ行法と関連して重要さを加え、オームの瞑想はヨーガの中心的な要素となる。だから、ここでこの言葉が自在神のシンボルとされているのももっともなことで、この音の実際的用法は次の経文で明らかにされる。

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2016年

3月

07日

ヨーガ・スートラ1-28

[1-28] ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

Repetition of OM (with this meaning) leads to contemplation. ||28||

 

<解説>①反復誦唱(japa)の行は、2-1、2-44に出ている読誦行(svadhyaya)の一種である。誦唱は低い声で、つぶやくようにとなえる行である。この行は、今日でも、ヨーガの瞑想の際有益な方法とされている。この経文は、誦唱と同時に自在神を念想することを勧める。自在神を念想(bhavana)するというのは、自在神の端厳な姿やその威力などを心に思い浮かべることであって、それに成功した時には、神の姿や声がヴィジョンとなって見え、聞こえてくるのである。(2-44参照)これに似た行法が、仏教の中で、念仏行として発達したことは、われわれにとって興味の深いことである。

 

<解説>②すなわち、小乗仏教では五停心観の中に念仏観が含まれ、大乗仏教では観仏三昧法、生身観法等の禅法として展開している。いずれも、如来の相好(ホトケの端厳微妙な姿は三十二相、八十種好をそなえているといわれる)を念想し、その姿を鮮明な幻影として眼のうちに見、ホトケの音声を耳に聞くに至る行法である。念想の原語バーヴァナ(bhavana)は、語源的には、ものを実現するという意味の語であって、単に抽象的な思考を持ち続けるのでなく、真理なり形像なりを具体的な形で直観することを意味しているのである。

 

<解説>③ところで、仏教でも、この行法は決して高い段階に置かれてはいない。小乗仏教の念仏観は最も初級の仏道修行の一つにすぎないし、大乗の禅法の中でも、観仏三昧や生身観は罪深き衆生(人間)が心を清め、常心を会得するための方便なのであって、これによって解脱したり、成仏したりすることはできないのである。これを以ても、ヨーガ・スートラの中の自在神祈念の法をバクティ・ヨーガと混合するのは大きなあやまりであることを知ることができる。

 

<解説>④聖音誦唱と自在神念想の二つの行法は、同時に行うのがよい。シナで盛んとなった浄土門の唱名念仏は、もとはかかる様式の念仏観であったのである。

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2016年

3月

08日

ヨーガ・スートラ1-29

[1-29] 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすことができる。

Through this practice, the immutable self is revealed and all abstacles (antaraya) are removed. ||29||    

 

<解説>内観の力を得る(pratyak-cetana-adhigama)という原語を、ある註釈家は人々内在の真我を直観する、という意味に解している。これでもわるくはないが、前記の二つの行法に対して、それ程の高い結果を期待するのは妥当でないように思われる。仏教でも、念仏観は種々の間違った見解その他の重罪を除滅するのに役立つものであるが、覚りを開くにはなお多くの段階の修行を必要とするのである。

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2016年

3月

09日

ヨーガ・スートラ1-30

【三昧に対する障害】

[1-30] 三昧に対する障害とは、(1)病気(2)無気力(3)疑(4)放逸(5)懶惰(6)執念(7)盲見(8)三昧の境地に入り得ない心理状態(9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

These obstacles (antaraya) (illness; inertia; doubt; neglect; sloth; desire; blindness; alack of goals; irresoluteness) obscure that which is immutable in human beings(chitta). ||30||

 

<解説>無気力(styana)は仏教用語で昏沈といい、心で強く望みながら、行動に出られないような心理状態。疑(samsaya)とは、二つの事柄のどちらをとるか決断がつかない気持、狐疑とか猶予とかいう語で表してもよい。放免(pramada)とは心に落着きがなく、ヨーガのように周到な注意を必要とすることはやれない性質。懶惰(alasya)は心もからだも重くて、なにもする気になれない心理状態、ものぐさ、ぶしょうなどという語がピッタリする。執念(avirati)とは、ものごとに対して欲望の強いことで、色情に限る必要はない。妄見(bhranti-darsana)とは真理に反する主義、主張、見解である。

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2016年

3月

10日

ヨーガ・スートラ1-31

[1-31] 苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

Suffering, depression, nervousness, and agitated breathing are signs of this this lack of clarity. ||31||

 

<解説①>苦悩(duhkha)は肉体、精神の苦しみを併せて意味する。不満(daurmanasya)とは、欲求がはばまれた時に生ずる興奮の心理のこと。あらい息づかい(svasa-prasvasa)の原語はただ入息と出息の意味であるが註釈家は、三昧に入ろうとする人の意思に反して、息を吸ったり、吐いたりする衝動が起こることで、三昧を妨げる発作の意味に解している。三昧の行中においては、静かで長い規則正しい呼吸を必要とするのであるが、心が乱れている時は、呼吸は不規則となりがちである。

 

<解説②>ヨーロッパのある学者の説によると通例のヨーロッパ人の呼吸は長短不規則な上に、1分間に30回もなされるという。ヨーガで呼吸の練習をするのは、瞑想に適する呼吸の習慣をつけるためである。呼吸の乱れと心の散動とは相伴っているから、呼吸を調えなければ、心を落ち着かせることはできないのである。

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2016年

3月

11日

ヨーガ・スートラ1-32

【心の散動状態を対治する法】

[1-32] 以上のような散動の心理状態を対治するためには、なにかある一つの原理を対象とする修習が必要である。

He who practices assiduously overcomes these obstacles. ||32||

 

<解説>①対治(pratisecha)というのは、医学で対症療法というのと同じように、一つ一つの散動心理を抑え、滅ぼしていくことである。原理(tattva)というのは真理、実在、実態等の意味を包含する。ここでは何かある事柄を択んで、それに注意を向けること(nivesana)を説くのが主眼であるから、その事柄の何たるかにこだわる必要はない。次の諸経文に列挙する事柄は、注意の対象に択ばれるのに適当なものとしてスートラの著者が推奨したいものなのである。

 

<解説>②ある註釈家は「唯一の実在」という意味に読み、自在神への祈念がここに勧められていると解釈している。しかし、次の数節との関連上、この解釈は不適当である。修習(abhyasa)については、すでに1-13に説かれている。修習とは、ある一つの思念の対象へ、心の焦点を、くり返してくり返し合わせることによって、ついには、心のはたらきのすべてを静止させてしまうことである。

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2016年

3月

12日

ヨーガ・スートラ1-33

 【心の静澄を得る方法】

[1-33] 慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる。

All that in mutable in human beings (chitta) is harmonized through the cultivation of love (maitri), helofulness (karuna), conviviality (mudita) and imperturbability (upeksha) in situations that are happy, painful, successful or unfortunate. ||33||

   

<解説>①慈、悲、喜、捨の四つの情操は仏教で四無量心とよばれるものである。その中で慈(maitri=マーイトリ)は他人の幸福をともに悦ぶ心、悲(karuna=カルナー)は他人の不幸をともに悲しむ心、喜(mudita=ムディター)は他人の善い行為をともに慶賀する心、捨(upeksa=ウペークシャー)は他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心である。これらの情操または心術を、ケース・バイ・ケースに念想の対象として、その心をくり返し、くり返して思い浮かべ、それのイメージがハッキリと心の中に形を結ぶようにする。

 

<解説>②この念想を行うことによって、これらの心術の逆の悪い心術は次第に起こらなくなるが、それだけでなく、三昧に必要な静かで澄みきった心が現われてくるのである。ヨーガの行者にとっては、心の静澄(prasada=プラサーダ)が生ずることが主たる願いである。仏教でも、四無量心は十二門禅の中の一つとしてあつかわれている。

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2016年

3月

13日

ヨーガ・スートラ1-34

[1-34] あるいは、気を出す法と、それを止めておく法とによっても、心の静澄が得られる。

The goal can be attained through breathing exercises involving holding your breath before exholing. ||34||

 

<解説>①この経文はいわゆる調気法(pranayama=プラーナーヤーマ)を説いたものである。本経1-31でうたってあったように、粗い不規則な息づかいは散動心の随伴現象であるから、逆に息を調整して心の静澄を得ようとするのが調気法である。ここで気を出す法(pracchardana)というのは、恐らく、時間をはかってゆっくりとそして充分に気息(いき)を吐き出してゆくことをいみしているのであろう。それを止めておく法(vidharana)というのは、胸にみちた気息を留保しておく法、すなわち後世クムバカ(kumbhaka)とよばれる調気法をさすものと思われるが、気息を出しきった後にしばらく吸わないでいることとも見ることができる。

 

<解説>②後の解釈に従うならば、通例の調気法とは違った調気法を説いていることになる。調気については2-49以下にも説かれている規定を比較してみる必要がある。もっとも気(prana)という語は、気息(svasa)と同一ではなく、気息の中に含まれている生命の素のようなものをいみしているから、気息の出入へ直接に結びつて解釈する必要はないとも考えられる(2-49参照)。  

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2016年

3月

14日

ヨーガ・スートラ1-35

[1-35] あるいは、いろいろな感覚対象をもった意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)をいや応なく不動にし、心の静澄をきたすものである(3-36参照)。

- Or by contemplating things and impressions, which promotes mental stability and consolidation ||35||

  

<解説>①この経文は、インドの註釈家の意見に従えば、行者がいろいろな感覚器官へ注意を集中することによって、それぞれの器官に微妙な感覚が生ずることをいうのだという。例えば鼻のさきに意識を集中すると、神々しい妙香の感覚が生じ、また舌端に集中すると微妙な味覚、口蓋に集中すると色の感覚、舌の中央に意識を集中すると触覚、舌根に集中すると音覚が生ずる。かような霊的な感覚を経験すると、行者の信念は確固たるものになる。

 

<解説>②書物や師匠や論証だけでは、どうしても、靴を隔ててかゆいところを搔くようなもどかしさを禁じ得ないが、前記のような感覚的な直接経験をすると、玄奥な哲理に対しても不動の信念を確立することができる。このようにインドのヨーギーは、この経文を3-25などに関連させて解釈している。意(manas=マナス)については2-53参照。

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2016年

3月

15日

ヨーガ・スートラ1-36

[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。

- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||

    

<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。

 

<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。

 

<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。

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2016年

3月

16日

ヨーガ・スートラ1-37

[1-37] あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、静澄が生ずる。

- Or if what is mutable in human beings (chitta) is no longer the handmaiden of desire. ||37||

    

<解説>註釈家はすべて、聖者のを対象として、それに凝念すると解している。聖者の心と断ってある理由はわからないけれども、仏教でも、観仏三昧の中に法身観法というのがあって、仏の内面性というべき、十力、四無所畏、大慈大悲等を観想することになっている。

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2016年

3月

17日

ヨーガ・スートラ1-38

[1-38] あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

- Or through knowledge that is derived from a nocturnal dream. ||38||

    

<解説>夢で得た体験といえば、神の端厳美妙な姿などを夢みることである。かかる夢を見たならば、眼ざめて後も忘れないようにして、それに心をこめる。熟睡で得た経験といえば、安らかな熟睡の後に残るみち足りた心地良い気分のことである。こういうものをも、定心すなわち静澄な心境を得る手段として利用することを忘れていない。同じような、行き届いた教育指導は仏教の禅法の中にも見られる。

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2016年

3月

18日

ヨーガ・スートラ1-39

[1-39] あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる。

- Or through contemplation (dhyana) of love. ||39||

 

<解説>ここでは瞑想の対象の種類は問わない。行者が好むもの、行者の心を引くものであれば、外界の物であろうと、体内の臓腑であろうと、抽象的なものであろうと、具体的なものであろうとかまわない。ただし、その対象が悪いものではないことだけが条件である。

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2016年

3月

19日

ヨーガ・スートラ1-40

[1-40] 以上のような仕方で心の静澄に達した行者には、極微から極大に及ぶすべてのことがらに対する支配力が現われる。

A person who attains this goal has mastery over everything, from the smallest atom to the entire universe. ||40||

 

<解説>ここで支配力(vasikara=ヴァシーカーラ)というのは、行者がどんな微細なものでも、どんな大きなものでも得る力のことである。(3-44参照)。

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2016年

3月

20日

ヨーガ・スートラ1-41

【定の定義と種類】

[1-41] かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。

Once the misconception (vritti) have been minimized, everything that is mutable in human beings (chitta) becomes as clear as a diamond, and perceptions, the perceived, and perceiver are melded with each oter. -One builds on and colors the other. This is enlightenment (samapatti). ||41||

 

<解説>定(samapatti=サマパッティ)は三昧(samadhi=サマーディ)というのと内容においては違わない。三昧の定義は3-3に出ている。それと、ここの定の定義とは表現の仕方は違っているが、内容においては合致している。まさしく、われわれが直観というのと同じ心理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態が、定とか三昧とかいわれる境地である。

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2016年

3月

21日

ヨーガ・スートラ1-42

【有尋定】

[1-42] 定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。

In conjunction with word and object knowledge, or imagination, this state is savitarka samapatti. ||42||

 

<解説>①有尋定(savitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)はいちばん初歩的な段階の定で、心のあらいはたらきが残っている。このことをいまの経文では、語と対象と観念とを区別する分別知が混じているもの、と定義したのである。分別知(vikalpa=ヴィカルパ)についてはすでに経文1-9が定義を下しているが、ここでは、一つの事柄について、それを表現する語と、その語によって示される客体と、それの観念とを区別する知識であると定義されている。真知は語、客体、観念の三者の未分の上に成り立つ無分別知でなければならない。区別される三者のどれもが実体を対象としない言語上の知にすぎない。次の無尋定の定義と比較すればわかるように、有尋定は未だ主客の対立を存する定心の段階なのである。この定義は仏教の分別知の定義にやや近い。1-17参照。

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2016年

3月

24日

ヨーガ・スートラ1-43

【無尋定】

[1-43] 定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である(3-3参照)。

Once all previous impressions (smriti) have been purged and one's own nature is clearly perceptible, then only the object of contemplation emanates light. This is nirvitarka samapatti. ||43||

 

<解説>無尋定(nirvitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)とは、要するに、主客未分の心理状態のことであるが、ここではこの心理を、記憶のはたらきの消失ということから説明している。詳しく言うと、言葉と意味との慣用的なつながり、伝承や推理に基づく知識など、いわゆる分別知の内容である記憶がすっかりなくなると、心はその対象である客体自体に染まって、まるで知るものとしての自体を捨てて客体そのものに成りきってしまったかのような観を呈する。これが無尋定といわれるものである。尋(vitarka)については1-17に説かれている。

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2016年

3月

25日

ヨーガ・スートラ1-44

[有伺定と無伺定]

[1-44] 前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。

If the object of concentration is of a subtle nature, these two described states are known as savichraara and nirvichara sampatti. ||44||

 

<解説>①微妙な存在を対象とする心のはたらきが伺(vicara=ヴィチアーラ)である。微妙な存在というのは何かについては次の経文が説明する。

 

<解説>②有伺定(savicara-samapatti=サヴィチャラサマーパッティ)というのは、その対象となる微妙な存在が現象(dharma=ダルマ)として顕現し、従って時間、空間、原因等の経験範疇によって限定されている場合の定心をいう。この場合には、主観と客観の対立が見られる。無伺定(nirvicara-samadhi=ニルヴィチャーラサマーディ)というのは、その対象となる微妙な存在が、過現未のいずれの時形においても現象せず、従って時間、空間、因果等の経験範疇に限定されないで、物自体(dharmin=ダルミン)のままで顕現する場合の定心をいう。このように、微妙な客体(artha=アルタ)の実体が赤裸々に三昧智の中に顕現する時には、三昧智はその対象に染まって、自己の実体をなくしてしまったかのように見えるのである。(P251以下参照)

 

<解説>③定を尋と伺のはたらきの有無によって分ける仕方は仏教の禅法の中にも見られる。仏教では天上界を欲界、色界、無色界の三階級に分ける。欲界はわれわれ人間の世界やそれ以下の世界と同じく、欲情によって支配される世界で、その境遇がわれわれのよりもすぐれているだけである。しかし、色界、無色界となると、禅定を修行し、定心を得るに成功した人しか行けない世界であって、この世界の住民は生まれながらにして定心をそなえている。この色界、無色界はその各々が四つの段階から成っている。この二界八段に対して、仏教は三つの禅定を次の図のように配当する。

色界 → 初禅天、二禅天、三禅天、四禅天

無色界→ 空無辺処地、識無辺処地、無所有処地、非想非々想処地 

(初禅天のみ有尋有伺定と無尋有伺定 他は無尋有伺定)

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2016年

3月

26日

ヨーガ・スートラ1-45

[1-45] 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な緒存在を総括した言葉である。

An object can be subtle to the point of indefinability. ||45||

 

<解説>この経文は前の1-44の「微妙な対象」という語の説明である。ここでは万物の根源である自性(mula-prakrti=ムーラ・プラクリティ)のことをアリンダ(alinga)という語で表している。アリンガとは「それ以上の質量因の中へ没し去らないもの」(無没)の意味である。自性に至るまでの形而上学的存在とは数論哲学でいうところの、五唯、我慢、覚(大)、自性の緒存在をいうのである。十一根と五大は単に結果(変異)であって、原因の意味を持たないから、ここに数えられない。真我は独立の実在で、自性から展開する質量因(upadana=ウパーダーナ)の系列に属していないから、「微妙な対象」のうちには入らない。(2-19参照)

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2016年

3月

27日

ヨーガ・スートラ1-46

[有種子三昧]
[1-46] 以上が有種子三昧である。

All of these states of consciousness are called sabija samadhi. ||46||

 

<解説>有種子(sa-bija=サビージャ)という語の意味は、三様に解釈されている。一つには、外的実在(bahir-vastu)すなわち客体を対象に持つという意味、二には、一般に対象を有する意味、三には、未だ究極の真智に達していないから輪廻の世界の束縛の因子を残しているという意味である。有種子三昧という語は、有想三昧という語と区別して用いられているように見える。有種子三昧は、この経文で有尋、無尋、有伺、無伺の四つの禅定の総称ということになっているのに対して、有想三昧は本経1-17によって有尋、有伺、有楽、有我想の四種と計算されているからである。ある註釈家は、両者を混合して、有尋、無尋、有伺、無伺、有楽、唯楽、有我想、唯我想の八定を以て有想三昧としている。禅定の分類にはいろいろな仕方があったことが考えられる。

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2016年

3月

28日

ヨーガ・スートラ1-47

[無伺三昧の極致と真智の発現]
[1-47] 有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。

If you regularly experience the clearest of the four aforementioned states known as nirvichara samapatti, then you are about to experience a state of absolute clarity. ||47||

 

<解説>無垢清浄(vaisaradya=ヴァイシャーラデャ)とは秋空のように澄明な状態をいう。無伺定を熱心に修習すると、覚のサットヴァ性が他の二つのグナのはたらきを抑えて、常に透明で不動な状態を保つようになる。そうすると、内面の静澄(adhyatma-prasada)という状態が実現する。内面の静澄とはいかなるものか?については次の三つの経文が説明しているが、註釈家によれば、それは客体の実相を対象とする真智が思考の過程を経ないで突然に輝き出る直観的体験のことであるという。

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2016年

3月

29日

ヨーガ・スートラ1-48

[1-48] 内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

- Then consciousness will be filled with truth. ||48||

 

<解説>真理のみを保有するという語のリタムバラ(rtambhara)はこの場合の直観智(prajna=プラジュニャー)の名称だとされている。仏教などでも、例えば大円鏡智などというように、悟りの智にいろいろな名称をつける。それによって真智の内容の特殊性を示そうとするのである。ここで真理という語のリタ(rta)はインド・ゲルマン時代からの古い経歴をもつ語である。リグ・ヴェーダでは、この語は「神の秩序」「永久不変の法則」などを意味したが、転じて「真理」「真実」(satya=サティア)を意味するようになる。

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2016年

3月

30日

ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。

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2016年

3月

31日

ヨーガ・スートラ1-50

[1-50] この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

This experience gives rise to an impression (samskara) that supplants other impressions (samskara). ||50||

 

<解説>①行とはすべてに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのをいうのである。ヨーガ心理学では、この行すなわち潜在印象という概念は大切な役割をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩(本経1-5参照)の原因となる。他の一つは業遺存(本経1-24参照)といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。

 

<解説>②ところで、無伺三昧中に生ずる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心(vyt-thana-cita)のはたらきによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現われることをふせぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現われる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり、果となって、連続してゆくことになる。ところがこの三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力をもっているから、心のはたらきを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務(adhikara=アディカーラ)から解放する。任務から解放され、業報を離れた心は、真我に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智(viveka-khyati)が生ずることによって到達されるのである(2-26,2-27,3-52,3-54,4-26,4-29参照)。

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2016年

4月

01日

ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。

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2016年

2月

10日

ヨーガ・スートラ1-1、1-2(三昧章)

これから、パタンジャリ作と伝えられる『ヨーガ・スートラ』を、佐保田鶴治先生の解説本で紹介します。

ヨーガ・スートラは以下の4つの章よりなる。

 

1・三昧章 Samadhi-Pada

2・禅那章 Sadhana-Pada

3・自在力章 Vibhuti-Pada

4・独存位章 Kaivalya-Pada

 

第1章「三昧章」

[1-1] これよりヨーガの解説をしよう。

Yoga in the here and now: an introduction to the study and practice of yoga||1||

【ヨーガの定義】

 

[1-2] ヨーガとは心の働きを止滅することである。

When you are in a state of yoga, all misconceptions (vrittis) that can exist in the mutable aspect of human beings (chitta) disappear.||2||

 

<解説>①心のはたらきについて、1-6には次の5種類をあげている。

1正しい知識

2誤った知識

3観念的知識

4睡眠

5記憶

 

<解説>②これらの心のはたらきを抑止して、消滅させる心理操作がヨーガである。ヨーガ心理学で心(チッタ)というときは、深層心理を含めた全ての心理の根源であるものを意味する。仏教では心(チッタ)は心王と訳されている。

 

<解説>③心(チッタ)の心理学的、哲学的意味については、さきに行って追々と明らかになる。心とそのはたらきとの関係はヨーガ思想では、実体とそれの現れの関係、例えば、湖の水と波のような関係として考えられている。

 

<解説>④止滅(ニローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしていく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。

 

<解説>⑤ここでは、止滅は三昧(サマディ)、ヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(うそう;心理作用が残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅と呼ばれている。

 

 

<解説>⑥このニローダ(止滅)という言葉は仏教的な匂いを持っている。

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2016年

2月

12日

ヨーガ・スートラ1-3

【真我】

[1-3] 心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たる真我は自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。

For finding our true self (drashtu) entails insight into our own nature.||3||

<解説>①ここではサーンキヤ(「数論(すろん)」)哲学の二元論が前提となっている。この哲学では究極の原理または実在として、自性(プラクリティ)と真我(プルシャ)の二元を立てる。自性(プラクリティ)は客観的な宇宙、万物の根源となる唯一の実在である。

 

<解説>②物質的な存在はもちろん、人間の心理的な器官も、すべて自性(プラクリティ)から展開したものである。これに反して、真我(プルシャ)は主観の主観ともいうべき純粋な精神性の原理で、各個人の本当の自我である。真我は、客観的存在のありさまを見ているだけの純粋な観照者なのである。

 

<解説>③われわれの心理現象というのは、自性から展開した無意識性の器官の変様の上に真我の純粋な意識性、照明性が映じた結果生じたものである。真我自身の姿といえば、独立自存な絶対者で、時間、空間の制約をうけず、つねに平和と光明に満ちた存在である。

 

<解説>④これが各人の真実の我の本来の在り方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を現実に受けているような錯覚を起こしているのが、われわれの現状である。

 

<解説>⑤この錯覚をどうして取り去ることができるか?これが課題なのである。ヨーガのねらいとするところは、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリヤ)を実現するにある。インド思想一般の言葉でいえば、ヨーガの目的は解脱(モクシャ)にあるのである。

 

 

<解説>⑥止滅の状態では、未だ真我独存、つまり解脱の状態ではないけれども、真我は本来の姿に還って、そこにとどまっているのである。

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2016年

2月

13日

ヨーガ・スートラ1-4

[1-4] その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。

Lacking that, misconceptions(vritti) skew our perceptions.||4||

<解説>①その他の場合というのは、止滅の状態とは違って、心のいろいろなはたらきが起こっては消えてゆく、通常の心理状態のことをいう。この時、真我(プルシャ)は自己本来の姿を見失って、その時その時の心の動きに同化した姿をとっている。

 

<解説>②真我本来の性質は変わらないけれども、その形がいろいろと変わってゆく。例えば月影が水の波に応じて変化し、水晶が花の色をうつして色を変えるようなものである。ここにわれわれの心理現象というものが成り立つ。

 

<解説>③サーンキヤ・ヨーガの哲学によれば、心の材料となっているものは無意識性のものであるから、心のはたらきはそれだけでは心理現象ではない。この無意識性の心理的素材に意識性を与えて、心理現象にするのは真我のもつ照明性、つまり意識性である。

 

<解説>④しかし、意識性だけでは無内容であるから、意識の内容を提供するのが心(チッタ)のいろいろなはたらきである。このような関係をサーンキヤ哲学は、真我(プルシャ)が覚(ブディ;最高の心理器官)に自分の輝く影を映ずること、として説明する(4-23参照)

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2016年

2月

14日

ヨーガ・スートラ1-5

【心(チッタ)のはたらき】
[1-5] 心(チッタ)のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。

There are five types of misconceptions (vrittis), some of which are more agreeable than others:||5||

 

<解説>①心の五種類のはたらきには次の節で説明される。煩悩性というのは煩悩に関連があるものということである。煩悩で包まれているもの、煩悩の心に結びつくものなどいろいろな場合が考えられる。

 

<解説>②いずれにせよ、煩悩性のものは人を輪廻(サンサーラ)の世界に束縛する性質を有し、これに反して、非煩悩性のものは人を解脱(自由)へ導く性格をもっている。

 

<解説>③煩悩については、二・三章以下に詳しく説かれている。クレーシャ(kles'a)という語を漢訳仏典で「煩悩」と訳したのは適訳というべく、クレーシャは人を煩わし、悩ますものという意味をもっている。

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-6

 五種類のはたらきとは

(1)正知

(2)誤謬

(3)分別知

(4)睡眠

(5)記憶

Insight, error, imaginings, deep sleep, and recollections. ||6||  

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-7

[1-7] 正知とは、

(1) 直接経験による知識

(2) 推理による知識

(3) 聖教に基づく知識

の三種である。

Insight arises from direct perception, conalusions, or learning that are based on reliable sources. ||7||

 

<解説>①正知(プラマーナ)という語には(1)正しい知識という意味と、(2)正しい知識を得る手段または証明の方法(シナで量と訳した)という意味がある。この正知の中へ何種類の認識方法を入れるかは、学派によって違っている。

 

<解説>②ヨーガ派はこの経文に説くように、三種類だけを正知として認めている。因明論理学の用語を使えば、(1)現量(2)比量(3)聖教量の三種である。学派によっては、この外にさらに三種の量(りょう)を加えるものがある。

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2016年

2月

16日

ヨーガ・スートラ1-8

[1-8] 誤謬とは、対象の実態に基づいていない不正な知識のことである。

Error arises from knowledge that is based on a felse mental construct. ||8||

 

<解説>誤謬(viparyaya)は因明論理では顛倒(てんどう)と訳されている。

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2016年

2月

17日

ヨーガ・スートラ1-9

[1-9] 分別知とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象を欠く判断のことである。

Imaginings are engendered by word knowledge without regard for what actually exists in the real world. ||9||

 

<解説>①分別知(vikalpa=ヴィカルパ)は正知とも違い、誤謬とも違っている。それは客観的対象に基づくものではないから、なんら実質的な内容のある判断にならない。

 

<解説>②例えば、「真我(プルシャ)の自体は霊智(caitanya=カイタニャ)である」というような判断は、真我と霊智とが同一物であるから、何ら積極的内容をもち得ない。かようないわゆる分析判断や、単に否定のみの判断などは正しい判断とも、不正な判断ともいえない。

 

<解説>③かかるに単に観念的な判断を分別知(ヴィカルパ)というのである。この種の知識は、実用的な知識として、実際生活には役立っている。分別知の定義は仏教のとは少し違っている。

 

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2016年

2月

19日

ヨーガ・スートラ1-10

[1-10] 睡眠とは、「空無」を対象とする、心のはたらきのことである。

Deep sleep is the absence of all impressions resulting from opacity in that which is mutable in human beings (chitta). ||10||   

 

<解説>①ここで睡眠(nidra=ニドラー)というのは、夢も見ないほどの深い眠りのことである。このような状態にあっても、心のはたらきはなくなっていない。

 

<解説>②サーンキャ・ヨーガの立場からいうと、自主(プラクリティ)は、三種の徳(guna=グナ;性質)すなわちエネルギーの間のダイナミックな結びつきの上に成り立っているのであるから、従って、それを根源とする心(チッタ)もまた、絶え間なく転変しつつあるのである。

 

<解説>③心は瞬時といえども転変をやめたり、存在しなくなったりはしない。その証拠に、どんなによく眠った後でも「あぁよく眠った」とか、「良く寝たので頭がはっきりした」という記憶が残るのである。それでは、熟睡のさなかには夢も見ないし、外界の物象を知覚したりしないのはなぜか?

 

<解説>④それは、その際の心のはたらきの対象となっているものが、”非存在”(abhava=アバーヴァ)という想念そのものであるからである。

 

<解説>⑤ある註釈家によれば、睡眠とは、目覚めている時や夢を見ている時のような心のはたらきがなくなることの原因であるタマス(暗黒と鈍重とを性格とするエネルギー)の徳(グナ)を対象として生じる、心のはたらきのことである。

 

<解説>⑥あるいは簡単に、ただ「存在しない」ということそのことだけを、”想念対象”とする、心のはたらきのことと解してもよい。仏教で所縁縁は四縁の中のひとつであり、心、心所の対境のことである。

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2016年

2月

20日

ヨーガ・スートラ1-11

[1-11] 記憶とは、かつて経験した対境が失われていないことである。

Recollections are engendered by the past, insofar as the relevant experience has not been eclipsed. ||11||

 

<解説>①この定義は、記憶の二面である把住(蓄積)と再生のうち、把住作用の方をあげているようにみえるが、そうではない。把住の方は、行(ぎょう;サンスカーラ)すなわち潜在意識の中に残存する印象の中の一部をなしている。

 

<解説>②かつて経験された対境の印象は潜在意識の中へ残存するのが把住の記憶である。この潜在的残存印象が消え去らないで、自分と同形の対境を再生するのが記憶である。記憶再生の時は、もとの経験とは逆で、把住する作(はた)らきよりも、把握される対象の方が主になる。

 

<解説>③もとの経験という中には、心(チッタ)の五つのはたらきのすべての場合が含まれている。すなわち、正知ないし記憶はすべて記憶の原因となるのである。記憶と夢とは、類似の心理現象であるが、夢の場合は、潜在意識内の印象が再生するとき、ビジョンとしてあらわれる。

 

<解説>④また夢はことの経験をゆがめたり、それにつけ加えたりする。

 

以上で(五つの)心のはたらきについての説明は終わるが、この五種類のはたらきの下にはまた多くのスブクラスのはたらきがあり、時と所と人に応じて、複雑多用な心理現象を表すのである。

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2016年

2月

21日

ヨーガ・スートラ1-12

〔修習(しゅうじゅう)と離欲〕

[1-12]  心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。

The state of yoga is attained via a balanece between assiduousness (abhyasa) and imperturability (vairagya). ||12||

 

<解説>修習という原語アビアーサ(abhyasa)はシナで数習(さくじゅう)とも訳し、同じしぐさを何べんとなく繰り返して、それに習熟することである。ここに修行というものの本質がある。体操を始めとして、呼吸法、瞑想法を含めたヨーガ行法はすべて、同じことを繰り返して練習することを骨子としている。修習と離欲、この二つの方法をどう使い分けて、心のはたらきの止滅をもたらすかがヨーガの根本的課題であるわけである。

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2016年

2月

22日

ヨーガ・スートラ1-13

[1-13] この二つの止滅のうち、修習(しゅうじゅう)とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。

Assiduousness means resoulutely adhering to one's practice of yoga. ||13||

 

<解説>静止(sthiti=ステイティ)というのは心(チッタ)がそのはたらきをなくして、心の流れが停止した状態をいうのであるが、しかし、ヨーガ哲学からいえば、心のエネルギーのダイナミックな転変(parinama)までがなくなるのではない。ある註釈家は、静止を仏教でいう心一境性(citta-ekagrata=しんいっきょうせい)すなわち注意が一つの対境(対象物)の上に不動にとどまっている状態と解している。これは究極的な静止状態ではない。

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2016年

2月

23日

ヨーガ・スートラ1-14

[1-14] この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。

Success can definitely be achieved via sound and continuous practice over an extended period of time, carried out in a serious and thoughtful manner. ||14||

 

<解説>厳格に実践するというのは、苦行、童貞、信、英智などを具備して、この修行に従事することである。堅固な基礎ができあがるというのは、この修行の習性ができあがって、雑念のために妨げられるようなことがなくなることである。

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2016年

2月

24日

ヨーガ・スートラ1-15

[1-15] 離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。

Imperturbability results from a balance in the consciousness, and when the desire for all things that we see or have heard of is extinguished. ||15||

 

<解説>ここで離欲(vairarya=バイラーギア)は対象に対する欲情を離れた状態のことではなくて、その状態に達した人がもつ、欲情の克服者たる自覚(vasikara-samjna)である、と定義されている。伝え聞いた対象といのは、ヴェーダなどの伝説によって伝え聞いた天上界の幸福などのことをいうのである。

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2016年

2月

25日

ヨーガ・スートラ1-16

[1-16] 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くもので、三徳そのものに対する離欲である。

The highest state of imperturbability arises from the experience of the true self; in tihs state even the basic elements of nature lose their power over us. ||16||

 

<解説>①離欲には上下の種類がある。一般に、見たり聞いたりした事柄についての離欲は低い段階の離欲である。低い離欲は、真智を得るための補助手段になるし、その相応の善い結果を生むことはできる。

 

<解説>②しかし、最後の目的たる解脱を得るためには、修行によって真我は自性(prakrti=プラクリティ)とは全く別個のものであるという真智(purusa-khyati)に到達した後、自性の構成要素である三徳(グナ)すなわち三種のエネルギーそのものに対してさえ、離欲の自覚をもたなければならない。

 

<解説>③つまり、客観的世界の根源のさかのぼってまで、これを拒否し、克服して、自己の主体性を自覚的に確立し得た時に、はじめて真我独存という至上の境地に立つことができるというのである

 

<解説>④経文3-49~50では、覚(ブディ)と真我(プルシャ)とが別個のものであるという真智を得た行者は、宇宙万有を支配し、見とおす力を得るが、そんなものに対してまでも無欲となった時に、始めてあらゆる弱点を消尽して真我独存の境地に達することができる、と説いている。

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2016年

2月

26日

ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。

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2016年

2月

27日

ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。

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2016年

2月

28日

ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。

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2016年

2月

29日

ヨーガ・スートラ1-20

[1-20] その他の人々、つまりヨーガ行者たちの(真実の)無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

And then there are some for whom trust, determination, memory and divination lay the groundwork for insight. ||20||

 

   

<解説>①堅信以下の五つの手段は、仏教の修行方法である三十七道品の中の五根(こん)、五力(りき)というグループに属する徳目(信、勤、念、定、慧)と全く同じである。

 

<解説>②堅信(sraddha=シラッダー)とは道に対する信念のことであるが、同時に清澄な心をも意味する。道に対する堅い信念があれば、やがて、道を修めようとする力強い努力(virya)が生まれる。

 

<解説>③この努力は、やがて、いろいろな戒律や信条をいつも忘れずに守ってゆく念想(smrti=スムリティ)としてみのる。念想を行じてゆくうち、おのずと雑念が消えて、三昧の心がまえがあらわれてくる。そうしてついに、世界の実相を如実に知る真智(prajna=プラジナー)が生じる。

 

<解説>④この真智をも離脱した時にはじめて無想(むそう)、無種子(むしゅじ)の三昧が完成されるのである。この間の事情については1-47以下、4-29、4-34に説かれている。

 

<解説>⑤インドの註釈家は、(以て非なるものと真実なるものとの)前記二種の無想を区別して、(1)存在を縁(原因)とするもの(bhava-pra-tyaya)ト、(2)方便を縁とするもの(upaya-pratyaya)と名付けている。

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2016年

3月

01日

ヨーガ・スートラ1-21

[熱心さの強度と成功]

[1-21] 解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、無想三昧の成功は間近い。

The goal is achieved through intensive practice. ||21||

 

<解説>熱情の原語サンヴェーガ(samvega)については、ハウエル氏の意見に従って、ジャイナ教徒ヘーマチャンドラの解釈”moksa-abhilasa”(解脱への欲求)を採用した。仏教では、この語を、生老病死等の苦の姿をつぶさに観察した結果生ずる宗教的情動(religi-ous emotion)の意味に用いている。

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-22

[1-22] 強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

This practice can be light, moderate or intensive. ||22||

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。

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2016年

3月

03日

ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。

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2016年

3月

04日

ヨーガ・スートラ1-25

[1-25] 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。

Ishavara is unmatched and is the source of all knowledge. ||25||   

 

<解説>①一切知(sarvajna=サーヴァジュナー)の種子は比較相対を許さぬはずであるから、無上とか最勝とかいう形容詞をつけるのは矛盾ではないか、という非難を予想して、インドの註釈家は苦心さんたんたる解釈を施している。しかし、本経典全体の思想構成に照らして理解するならば、むずかしい解釈は、無用の長物になる。

 

<解説>②一切知と同じ意味の語「一切知者たる力」(sarvajnatrtva)という語が3-49に出ている。ここでは、覚と真我とが別個のものであるという真知が行者の全意識をみたした時に生ずる、ヴィショーカ(visoka)と呼ばれる超自然的能力(siddhi=シッディ)の内容として、すべての世界を支配する力とすべてのことを知る力とがあげられている。

 

<解説>③さらに3-54には、やはり真智から生ずる、ターラカ(taraka)という霊能が説かれている。(3-33参照)この霊能は、あらゆるもののあらゆる在り方を対象とし、しかもそれらすべてを一時に、なんの手続きをも経ないで、知ることができる能力であると規定されている。だから、一切知は真智を実現した人のすべてに具わる力なのであるが、しかし、特に自在神には、一切知の中でも景勝なものが備わっている。こういわんとするのがこの経文のねらいであろう。

 

<解説>④種子という語は、一切知を芽生えさせる原因、または能力を意味する。一切知の代わりに「一切知者」(sarva-jna)とみても意味は通じる。要するに、ヨーガの自在神は偉大なグルであるが、バクティ信仰の対象のような全能な専制君主ではないのであって、その性格は仏陀やジャイナ教のジナの性格に似ている。一切知、一切知者の理念は多分、仏教やジャイナ教の影響を示しているであろう。

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2016年

3月

05日

ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)

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2016年

3月

06日

ヨーガ・スートラ1-27

[1-27] この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

OM is a symbol for ishvara. ||27||

 

<解説>聖音(pranava)「オーム」(om)はヴェーダ時代から神聖な音として尊ばれて来ている。始めは祭司が祭儀を行う時のうけごたえの言葉であったが、次第に神聖な意義をもつようになり、ウパニシャッドでは、宇宙の根源たるブラフマン(brahman)の象徴とされている。その後この音は特にヨーガ行法と関連して重要さを加え、オームの瞑想はヨーガの中心的な要素となる。だから、ここでこの言葉が自在神のシンボルとされているのももっともなことで、この音の実際的用法は次の経文で明らかにされる。

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2016年

3月

07日

ヨーガ・スートラ1-28

[1-28] ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

Repetition of OM (with this meaning) leads to contemplation. ||28||

 

<解説>①反復誦唱(japa)の行は、2-1、2-44に出ている読誦行(svadhyaya)の一種である。誦唱は低い声で、つぶやくようにとなえる行である。この行は、今日でも、ヨーガの瞑想の際有益な方法とされている。この経文は、誦唱と同時に自在神を念想することを勧める。自在神を念想(bhavana)するというのは、自在神の端厳な姿やその威力などを心に思い浮かべることであって、それに成功した時には、神の姿や声がヴィジョンとなって見え、聞こえてくるのである。(2-44参照)これに似た行法が、仏教の中で、念仏行として発達したことは、われわれにとって興味の深いことである。

 

<解説>②すなわち、小乗仏教では五停心観の中に念仏観が含まれ、大乗仏教では観仏三昧法、生身観法等の禅法として展開している。いずれも、如来の相好(ホトケの端厳微妙な姿は三十二相、八十種好をそなえているといわれる)を念想し、その姿を鮮明な幻影として眼のうちに見、ホトケの音声を耳に聞くに至る行法である。念想の原語バーヴァナ(bhavana)は、語源的には、ものを実現するという意味の語であって、単に抽象的な思考を持ち続けるのでなく、真理なり形像なりを具体的な形で直観することを意味しているのである。

 

<解説>③ところで、仏教でも、この行法は決して高い段階に置かれてはいない。小乗仏教の念仏観は最も初級の仏道修行の一つにすぎないし、大乗の禅法の中でも、観仏三昧や生身観は罪深き衆生(人間)が心を清め、常心を会得するための方便なのであって、これによって解脱したり、成仏したりすることはできないのである。これを以ても、ヨーガ・スートラの中の自在神祈念の法をバクティ・ヨーガと混合するのは大きなあやまりであることを知ることができる。

 

<解説>④聖音誦唱と自在神念想の二つの行法は、同時に行うのがよい。シナで盛んとなった浄土門の唱名念仏は、もとはかかる様式の念仏観であったのである。

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2016年

3月

08日

ヨーガ・スートラ1-29

[1-29] 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすことができる。

Through this practice, the immutable self is revealed and all abstacles (antaraya) are removed. ||29||    

 

<解説>内観の力を得る(pratyak-cetana-adhigama)という原語を、ある註釈家は人々内在の真我を直観する、という意味に解している。これでもわるくはないが、前記の二つの行法に対して、それ程の高い結果を期待するのは妥当でないように思われる。仏教でも、念仏観は種々の間違った見解その他の重罪を除滅するのに役立つものであるが、覚りを開くにはなお多くの段階の修行を必要とするのである。

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2016年

3月

09日

ヨーガ・スートラ1-30

【三昧に対する障害】

[1-30] 三昧に対する障害とは、(1)病気(2)無気力(3)疑(4)放逸(5)懶惰(6)執念(7)盲見(8)三昧の境地に入り得ない心理状態(9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

These obstacles (antaraya) (illness; inertia; doubt; neglect; sloth; desire; blindness; alack of goals; irresoluteness) obscure that which is immutable in human beings(chitta). ||30||

 

<解説>無気力(styana)は仏教用語で昏沈といい、心で強く望みながら、行動に出られないような心理状態。疑(samsaya)とは、二つの事柄のどちらをとるか決断がつかない気持、狐疑とか猶予とかいう語で表してもよい。放免(pramada)とは心に落着きがなく、ヨーガのように周到な注意を必要とすることはやれない性質。懶惰(alasya)は心もからだも重くて、なにもする気になれない心理状態、ものぐさ、ぶしょうなどという語がピッタリする。執念(avirati)とは、ものごとに対して欲望の強いことで、色情に限る必要はない。妄見(bhranti-darsana)とは真理に反する主義、主張、見解である。

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2016年

3月

10日

ヨーガ・スートラ1-31

[1-31] 苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

Suffering, depression, nervousness, and agitated breathing are signs of this this lack of clarity. ||31||

 

<解説①>苦悩(duhkha)は肉体、精神の苦しみを併せて意味する。不満(daurmanasya)とは、欲求がはばまれた時に生ずる興奮の心理のこと。あらい息づかい(svasa-prasvasa)の原語はただ入息と出息の意味であるが註釈家は、三昧に入ろうとする人の意思に反して、息を吸ったり、吐いたりする衝動が起こることで、三昧を妨げる発作の意味に解している。三昧の行中においては、静かで長い規則正しい呼吸を必要とするのであるが、心が乱れている時は、呼吸は不規則となりがちである。

 

<解説②>ヨーロッパのある学者の説によると通例のヨーロッパ人の呼吸は長短不規則な上に、1分間に30回もなされるという。ヨーガで呼吸の練習をするのは、瞑想に適する呼吸の習慣をつけるためである。呼吸の乱れと心の散動とは相伴っているから、呼吸を調えなければ、心を落ち着かせることはできないのである。

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2016年

3月

11日

ヨーガ・スートラ1-32

【心の散動状態を対治する法】

[1-32] 以上のような散動の心理状態を対治するためには、なにかある一つの原理を対象とする修習が必要である。

He who practices assiduously overcomes these obstacles. ||32||

 

<解説>①対治(pratisecha)というのは、医学で対症療法というのと同じように、一つ一つの散動心理を抑え、滅ぼしていくことである。原理(tattva)というのは真理、実在、実態等の意味を包含する。ここでは何かある事柄を択んで、それに注意を向けること(nivesana)を説くのが主眼であるから、その事柄の何たるかにこだわる必要はない。次の諸経文に列挙する事柄は、注意の対象に択ばれるのに適当なものとしてスートラの著者が推奨したいものなのである。

 

<解説>②ある註釈家は「唯一の実在」という意味に読み、自在神への祈念がここに勧められていると解釈している。しかし、次の数節との関連上、この解釈は不適当である。修習(abhyasa)については、すでに1-13に説かれている。修習とは、ある一つの思念の対象へ、心の焦点を、くり返してくり返し合わせることによって、ついには、心のはたらきのすべてを静止させてしまうことである。

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2016年

3月

12日

ヨーガ・スートラ1-33

 【心の静澄を得る方法】

[1-33] 慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる。

All that in mutable in human beings (chitta) is harmonized through the cultivation of love (maitri), helofulness (karuna), conviviality (mudita) and imperturbability (upeksha) in situations that are happy, painful, successful or unfortunate. ||33||

   

<解説>①慈、悲、喜、捨の四つの情操は仏教で四無量心とよばれるものである。その中で慈(maitri=マーイトリ)は他人の幸福をともに悦ぶ心、悲(karuna=カルナー)は他人の不幸をともに悲しむ心、喜(mudita=ムディター)は他人の善い行為をともに慶賀する心、捨(upeksa=ウペークシャー)は他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心である。これらの情操または心術を、ケース・バイ・ケースに念想の対象として、その心をくり返し、くり返して思い浮かべ、それのイメージがハッキリと心の中に形を結ぶようにする。

 

<解説>②この念想を行うことによって、これらの心術の逆の悪い心術は次第に起こらなくなるが、それだけでなく、三昧に必要な静かで澄みきった心が現われてくるのである。ヨーガの行者にとっては、心の静澄(prasada=プラサーダ)が生ずることが主たる願いである。仏教でも、四無量心は十二門禅の中の一つとしてあつかわれている。

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2016年

3月

13日

ヨーガ・スートラ1-34

[1-34] あるいは、気を出す法と、それを止めておく法とによっても、心の静澄が得られる。

The goal can be attained through breathing exercises involving holding your breath before exholing. ||34||

 

<解説>①この経文はいわゆる調気法(pranayama=プラーナーヤーマ)を説いたものである。本経1-31でうたってあったように、粗い不規則な息づかいは散動心の随伴現象であるから、逆に息を調整して心の静澄を得ようとするのが調気法である。ここで気を出す法(pracchardana)というのは、恐らく、時間をはかってゆっくりとそして充分に気息(いき)を吐き出してゆくことをいみしているのであろう。それを止めておく法(vidharana)というのは、胸にみちた気息を留保しておく法、すなわち後世クムバカ(kumbhaka)とよばれる調気法をさすものと思われるが、気息を出しきった後にしばらく吸わないでいることとも見ることができる。

 

<解説>②後の解釈に従うならば、通例の調気法とは違った調気法を説いていることになる。調気については2-49以下にも説かれている規定を比較してみる必要がある。もっとも気(prana)という語は、気息(svasa)と同一ではなく、気息の中に含まれている生命の素のようなものをいみしているから、気息の出入へ直接に結びつて解釈する必要はないとも考えられる(2-49参照)。  

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2016年

3月

14日

ヨーガ・スートラ1-35

[1-35] あるいは、いろいろな感覚対象をもった意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)をいや応なく不動にし、心の静澄をきたすものである(3-36参照)。

- Or by contemplating things and impressions, which promotes mental stability and consolidation ||35||

  

<解説>①この経文は、インドの註釈家の意見に従えば、行者がいろいろな感覚器官へ注意を集中することによって、それぞれの器官に微妙な感覚が生ずることをいうのだという。例えば鼻のさきに意識を集中すると、神々しい妙香の感覚が生じ、また舌端に集中すると微妙な味覚、口蓋に集中すると色の感覚、舌の中央に意識を集中すると触覚、舌根に集中すると音覚が生ずる。かような霊的な感覚を経験すると、行者の信念は確固たるものになる。

 

<解説>②書物や師匠や論証だけでは、どうしても、靴を隔ててかゆいところを搔くようなもどかしさを禁じ得ないが、前記のような感覚的な直接経験をすると、玄奥な哲理に対しても不動の信念を確立することができる。このようにインドのヨーギーは、この経文を3-25などに関連させて解釈している。意(manas=マナス)については2-53参照。

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2016年

3月

15日

ヨーガ・スートラ1-36

[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。

- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||

    

<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。

 

<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。

 

<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。

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2016年

3月

16日

ヨーガ・スートラ1-37

[1-37] あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、静澄が生ずる。

- Or if what is mutable in human beings (chitta) is no longer the handmaiden of desire. ||37||

    

<解説>註釈家はすべて、聖者のを対象として、それに凝念すると解している。聖者の心と断ってある理由はわからないけれども、仏教でも、観仏三昧の中に法身観法というのがあって、仏の内面性というべき、十力、四無所畏、大慈大悲等を観想することになっている。

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2016年

3月

17日

ヨーガ・スートラ1-38

[1-38] あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

- Or through knowledge that is derived from a nocturnal dream. ||38||

    

<解説>夢で得た体験といえば、神の端厳美妙な姿などを夢みることである。かかる夢を見たならば、眼ざめて後も忘れないようにして、それに心をこめる。熟睡で得た経験といえば、安らかな熟睡の後に残るみち足りた心地良い気分のことである。こういうものをも、定心すなわち静澄な心境を得る手段として利用することを忘れていない。同じような、行き届いた教育指導は仏教の禅法の中にも見られる。

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2016年

3月

18日

ヨーガ・スートラ1-39

[1-39] あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる。

- Or through contemplation (dhyana) of love. ||39||

 

<解説>ここでは瞑想の対象の種類は問わない。行者が好むもの、行者の心を引くものであれば、外界の物であろうと、体内の臓腑であろうと、抽象的なものであろうと、具体的なものであろうとかまわない。ただし、その対象が悪いものではないことだけが条件である。

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2016年

3月

19日

ヨーガ・スートラ1-40

[1-40] 以上のような仕方で心の静澄に達した行者には、極微から極大に及ぶすべてのことがらに対する支配力が現われる。

A person who attains this goal has mastery over everything, from the smallest atom to the entire universe. ||40||

 

<解説>ここで支配力(vasikara=ヴァシーカーラ)というのは、行者がどんな微細なものでも、どんな大きなものでも得る力のことである。(3-44参照)。

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2016年

3月

20日

ヨーガ・スートラ1-41

【定の定義と種類】

[1-41] かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。

Once the misconception (vritti) have been minimized, everything that is mutable in human beings (chitta) becomes as clear as a diamond, and perceptions, the perceived, and perceiver are melded with each oter. -One builds on and colors the other. This is enlightenment (samapatti). ||41||

 

<解説>定(samapatti=サマパッティ)は三昧(samadhi=サマーディ)というのと内容においては違わない。三昧の定義は3-3に出ている。それと、ここの定の定義とは表現の仕方は違っているが、内容においては合致している。まさしく、われわれが直観というのと同じ心理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態が、定とか三昧とかいわれる境地である。

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2016年

3月

21日

ヨーガ・スートラ1-42

【有尋定】

[1-42] 定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。

In conjunction with word and object knowledge, or imagination, this state is savitarka samapatti. ||42||

 

<解説>①有尋定(savitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)はいちばん初歩的な段階の定で、心のあらいはたらきが残っている。このことをいまの経文では、語と対象と観念とを区別する分別知が混じているもの、と定義したのである。分別知(vikalpa=ヴィカルパ)についてはすでに経文1-9が定義を下しているが、ここでは、一つの事柄について、それを表現する語と、その語によって示される客体と、それの観念とを区別する知識であると定義されている。真知は語、客体、観念の三者の未分の上に成り立つ無分別知でなければならない。区別される三者のどれもが実体を対象としない言語上の知にすぎない。次の無尋定の定義と比較すればわかるように、有尋定は未だ主客の対立を存する定心の段階なのである。この定義は仏教の分別知の定義にやや近い。1-17参照。

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2016年

3月

24日

ヨーガ・スートラ1-43

【無尋定】

[1-43] 定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である(3-3参照)。

Once all previous impressions (smriti) have been purged and one's own nature is clearly perceptible, then only the object of contemplation emanates light. This is nirvitarka samapatti. ||43||

 

<解説>無尋定(nirvitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)とは、要するに、主客未分の心理状態のことであるが、ここではこの心理を、記憶のはたらきの消失ということから説明している。詳しく言うと、言葉と意味との慣用的なつながり、伝承や推理に基づく知識など、いわゆる分別知の内容である記憶がすっかりなくなると、心はその対象である客体自体に染まって、まるで知るものとしての自体を捨てて客体そのものに成りきってしまったかのような観を呈する。これが無尋定といわれるものである。尋(vitarka)については1-17に説かれている。

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2016年

3月

25日

ヨーガ・スートラ1-44

[有伺定と無伺定]

[1-44] 前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。

If the object of concentration is of a subtle nature, these two described states are known as savichraara and nirvichara sampatti. ||44||

 

<解説>①微妙な存在を対象とする心のはたらきが伺(vicara=ヴィチアーラ)である。微妙な存在というのは何かについては次の経文が説明する。

 

<解説>②有伺定(savicara-samapatti=サヴィチャラサマーパッティ)というのは、その対象となる微妙な存在が現象(dharma=ダルマ)として顕現し、従って時間、空間、原因等の経験範疇によって限定されている場合の定心をいう。この場合には、主観と客観の対立が見られる。無伺定(nirvicara-samadhi=ニルヴィチャーラサマーディ)というのは、その対象となる微妙な存在が、過現未のいずれの時形においても現象せず、従って時間、空間、因果等の経験範疇に限定されないで、物自体(dharmin=ダルミン)のままで顕現する場合の定心をいう。このように、微妙な客体(artha=アルタ)の実体が赤裸々に三昧智の中に顕現する時には、三昧智はその対象に染まって、自己の実体をなくしてしまったかのように見えるのである。(P251以下参照)

 

<解説>③定を尋と伺のはたらきの有無によって分ける仕方は仏教の禅法の中にも見られる。仏教では天上界を欲界、色界、無色界の三階級に分ける。欲界はわれわれ人間の世界やそれ以下の世界と同じく、欲情によって支配される世界で、その境遇がわれわれのよりもすぐれているだけである。しかし、色界、無色界となると、禅定を修行し、定心を得るに成功した人しか行けない世界であって、この世界の住民は生まれながらにして定心をそなえている。この色界、無色界はその各々が四つの段階から成っている。この二界八段に対して、仏教は三つの禅定を次の図のように配当する。

色界 → 初禅天、二禅天、三禅天、四禅天

無色界→ 空無辺処地、識無辺処地、無所有処地、非想非々想処地 

(初禅天のみ有尋有伺定と無尋有伺定 他は無尋有伺定)

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3月

26日

ヨーガ・スートラ1-45

[1-45] 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な緒存在を総括した言葉である。

An object can be subtle to the point of indefinability. ||45||

 

<解説>この経文は前の1-44の「微妙な対象」という語の説明である。ここでは万物の根源である自性(mula-prakrti=ムーラ・プラクリティ)のことをアリンダ(alinga)という語で表している。アリンガとは「それ以上の質量因の中へ没し去らないもの」(無没)の意味である。自性に至るまでの形而上学的存在とは数論哲学でいうところの、五唯、我慢、覚(大)、自性の緒存在をいうのである。十一根と五大は単に結果(変異)であって、原因の意味を持たないから、ここに数えられない。真我は独立の実在で、自性から展開する質量因(upadana=ウパーダーナ)の系列に属していないから、「微妙な対象」のうちには入らない。(2-19参照)

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2016年

3月

27日

ヨーガ・スートラ1-46

[有種子三昧]
[1-46] 以上が有種子三昧である。

All of these states of consciousness are called sabija samadhi. ||46||

 

<解説>有種子(sa-bija=サビージャ)という語の意味は、三様に解釈されている。一つには、外的実在(bahir-vastu)すなわち客体を対象に持つという意味、二には、一般に対象を有する意味、三には、未だ究極の真智に達していないから輪廻の世界の束縛の因子を残しているという意味である。有種子三昧という語は、有想三昧という語と区別して用いられているように見える。有種子三昧は、この経文で有尋、無尋、有伺、無伺の四つの禅定の総称ということになっているのに対して、有想三昧は本経1-17によって有尋、有伺、有楽、有我想の四種と計算されているからである。ある註釈家は、両者を混合して、有尋、無尋、有伺、無伺、有楽、唯楽、有我想、唯我想の八定を以て有想三昧としている。禅定の分類にはいろいろな仕方があったことが考えられる。

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3月

28日

ヨーガ・スートラ1-47

[無伺三昧の極致と真智の発現]
[1-47] 有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。

If you regularly experience the clearest of the four aforementioned states known as nirvichara samapatti, then you are about to experience a state of absolute clarity. ||47||

 

<解説>無垢清浄(vaisaradya=ヴァイシャーラデャ)とは秋空のように澄明な状態をいう。無伺定を熱心に修習すると、覚のサットヴァ性が他の二つのグナのはたらきを抑えて、常に透明で不動な状態を保つようになる。そうすると、内面の静澄(adhyatma-prasada)という状態が実現する。内面の静澄とはいかなるものか?については次の三つの経文が説明しているが、註釈家によれば、それは客体の実相を対象とする真智が思考の過程を経ないで突然に輝き出る直観的体験のことであるという。

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3月

29日

ヨーガ・スートラ1-48

[1-48] 内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

- Then consciousness will be filled with truth. ||48||

 

<解説>真理のみを保有するという語のリタムバラ(rtambhara)はこの場合の直観智(prajna=プラジュニャー)の名称だとされている。仏教などでも、例えば大円鏡智などというように、悟りの智にいろいろな名称をつける。それによって真智の内容の特殊性を示そうとするのである。ここで真理という語のリタ(rta)はインド・ゲルマン時代からの古い経歴をもつ語である。リグ・ヴェーダでは、この語は「神の秩序」「永久不変の法則」などを意味したが、転じて「真理」「真実」(satya=サティア)を意味するようになる。

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2016年

3月

30日

ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。

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2016年

3月

31日

ヨーガ・スートラ1-50

[1-50] この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

This experience gives rise to an impression (samskara) that supplants other impressions (samskara). ||50||

 

<解説>①行とはすべてに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのをいうのである。ヨーガ心理学では、この行すなわち潜在印象という概念は大切な役割をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩(本経1-5参照)の原因となる。他の一つは業遺存(本経1-24参照)といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。

 

<解説>②ところで、無伺三昧中に生ずる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心(vyt-thana-cita)のはたらきによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現われることをふせぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現われる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり、果となって、連続してゆくことになる。ところがこの三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力をもっているから、心のはたらきを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務(adhikara=アディカーラ)から解放する。任務から解放され、業報を離れた心は、真我に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智(viveka-khyati)が生ずることによって到達されるのである(2-26,2-27,3-52,3-54,4-26,4-29参照)。

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2016年

4月

01日

ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。

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2016年

2月

10日

ヨーガ・スートラ1-1、1-2(三昧章)

これから、パタンジャリ作と伝えられる『ヨーガ・スートラ』を、佐保田鶴治先生の解説本で紹介します。

ヨーガ・スートラは以下の4つの章よりなる。

 

1・三昧章 Samadhi-Pada

2・禅那章 Sadhana-Pada

3・自在力章 Vibhuti-Pada

4・独存位章 Kaivalya-Pada

 

第1章「三昧章」

[1-1] これよりヨーガの解説をしよう。

Yoga in the here and now: an introduction to the study and practice of yoga||1||

【ヨーガの定義】

 

[1-2] ヨーガとは心の働きを止滅することである。

When you are in a state of yoga, all misconceptions (vrittis) that can exist in the mutable aspect of human beings (chitta) disappear.||2||

 

<解説>①心のはたらきについて、1-6には次の5種類をあげている。

1正しい知識

2誤った知識

3観念的知識

4睡眠

5記憶

 

<解説>②これらの心のはたらきを抑止して、消滅させる心理操作がヨーガである。ヨーガ心理学で心(チッタ)というときは、深層心理を含めた全ての心理の根源であるものを意味する。仏教では心(チッタ)は心王と訳されている。

 

<解説>③心(チッタ)の心理学的、哲学的意味については、さきに行って追々と明らかになる。心とそのはたらきとの関係はヨーガ思想では、実体とそれの現れの関係、例えば、湖の水と波のような関係として考えられている。

 

<解説>④止滅(ニローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしていく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。

 

<解説>⑤ここでは、止滅は三昧(サマディ)、ヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(うそう;心理作用が残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅と呼ばれている。

 

 

<解説>⑥このニローダ(止滅)という言葉は仏教的な匂いを持っている。

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2016年

2月

12日

ヨーガ・スートラ1-3

【真我】

[1-3] 心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たる真我は自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。

For finding our true self (drashtu) entails insight into our own nature.||3||

<解説>①ここではサーンキヤ(「数論(すろん)」)哲学の二元論が前提となっている。この哲学では究極の原理または実在として、自性(プラクリティ)と真我(プルシャ)の二元を立てる。自性(プラクリティ)は客観的な宇宙、万物の根源となる唯一の実在である。

 

<解説>②物質的な存在はもちろん、人間の心理的な器官も、すべて自性(プラクリティ)から展開したものである。これに反して、真我(プルシャ)は主観の主観ともいうべき純粋な精神性の原理で、各個人の本当の自我である。真我は、客観的存在のありさまを見ているだけの純粋な観照者なのである。

 

<解説>③われわれの心理現象というのは、自性から展開した無意識性の器官の変様の上に真我の純粋な意識性、照明性が映じた結果生じたものである。真我自身の姿といえば、独立自存な絶対者で、時間、空間の制約をうけず、つねに平和と光明に満ちた存在である。

 

<解説>④これが各人の真実の我の本来の在り方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を現実に受けているような錯覚を起こしているのが、われわれの現状である。

 

<解説>⑤この錯覚をどうして取り去ることができるか?これが課題なのである。ヨーガのねらいとするところは、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリヤ)を実現するにある。インド思想一般の言葉でいえば、ヨーガの目的は解脱(モクシャ)にあるのである。

 

 

<解説>⑥止滅の状態では、未だ真我独存、つまり解脱の状態ではないけれども、真我は本来の姿に還って、そこにとどまっているのである。

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2016年

2月

13日

ヨーガ・スートラ1-4

[1-4] その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。

Lacking that, misconceptions(vritti) skew our perceptions.||4||

<解説>①その他の場合というのは、止滅の状態とは違って、心のいろいろなはたらきが起こっては消えてゆく、通常の心理状態のことをいう。この時、真我(プルシャ)は自己本来の姿を見失って、その時その時の心の動きに同化した姿をとっている。

 

<解説>②真我本来の性質は変わらないけれども、その形がいろいろと変わってゆく。例えば月影が水の波に応じて変化し、水晶が花の色をうつして色を変えるようなものである。ここにわれわれの心理現象というものが成り立つ。

 

<解説>③サーンキヤ・ヨーガの哲学によれば、心の材料となっているものは無意識性のものであるから、心のはたらきはそれだけでは心理現象ではない。この無意識性の心理的素材に意識性を与えて、心理現象にするのは真我のもつ照明性、つまり意識性である。

 

<解説>④しかし、意識性だけでは無内容であるから、意識の内容を提供するのが心(チッタ)のいろいろなはたらきである。このような関係をサーンキヤ哲学は、真我(プルシャ)が覚(ブディ;最高の心理器官)に自分の輝く影を映ずること、として説明する(4-23参照)

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2016年

2月

14日

ヨーガ・スートラ1-5

【心(チッタ)のはたらき】
[1-5] 心(チッタ)のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。

There are five types of misconceptions (vrittis), some of which are more agreeable than others:||5||

 

<解説>①心の五種類のはたらきには次の節で説明される。煩悩性というのは煩悩に関連があるものということである。煩悩で包まれているもの、煩悩の心に結びつくものなどいろいろな場合が考えられる。

 

<解説>②いずれにせよ、煩悩性のものは人を輪廻(サンサーラ)の世界に束縛する性質を有し、これに反して、非煩悩性のものは人を解脱(自由)へ導く性格をもっている。

 

<解説>③煩悩については、二・三章以下に詳しく説かれている。クレーシャ(kles'a)という語を漢訳仏典で「煩悩」と訳したのは適訳というべく、クレーシャは人を煩わし、悩ますものという意味をもっている。

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-6

 五種類のはたらきとは

(1)正知

(2)誤謬

(3)分別知

(4)睡眠

(5)記憶

Insight, error, imaginings, deep sleep, and recollections. ||6||  

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2016年

2月

15日

ヨーガ・スートラ1-7

[1-7] 正知とは、

(1) 直接経験による知識

(2) 推理による知識

(3) 聖教に基づく知識

の三種である。

Insight arises from direct perception, conalusions, or learning that are based on reliable sources. ||7||

 

<解説>①正知(プラマーナ)という語には(1)正しい知識という意味と、(2)正しい知識を得る手段または証明の方法(シナで量と訳した)という意味がある。この正知の中へ何種類の認識方法を入れるかは、学派によって違っている。

 

<解説>②ヨーガ派はこの経文に説くように、三種類だけを正知として認めている。因明論理学の用語を使えば、(1)現量(2)比量(3)聖教量の三種である。学派によっては、この外にさらに三種の量(りょう)を加えるものがある。

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2016年

2月

16日

ヨーガ・スートラ1-8

[1-8] 誤謬とは、対象の実態に基づいていない不正な知識のことである。

Error arises from knowledge that is based on a felse mental construct. ||8||

 

<解説>誤謬(viparyaya)は因明論理では顛倒(てんどう)と訳されている。

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2016年

2月

17日

ヨーガ・スートラ1-9

[1-9] 分別知とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象を欠く判断のことである。

Imaginings are engendered by word knowledge without regard for what actually exists in the real world. ||9||

 

<解説>①分別知(vikalpa=ヴィカルパ)は正知とも違い、誤謬とも違っている。それは客観的対象に基づくものではないから、なんら実質的な内容のある判断にならない。

 

<解説>②例えば、「真我(プルシャ)の自体は霊智(caitanya=カイタニャ)である」というような判断は、真我と霊智とが同一物であるから、何ら積極的内容をもち得ない。かようないわゆる分析判断や、単に否定のみの判断などは正しい判断とも、不正な判断ともいえない。

 

<解説>③かかるに単に観念的な判断を分別知(ヴィカルパ)というのである。この種の知識は、実用的な知識として、実際生活には役立っている。分別知の定義は仏教のとは少し違っている。

 

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2016年

2月

19日

ヨーガ・スートラ1-10

[1-10] 睡眠とは、「空無」を対象とする、心のはたらきのことである。

Deep sleep is the absence of all impressions resulting from opacity in that which is mutable in human beings (chitta). ||10||   

 

<解説>①ここで睡眠(nidra=ニドラー)というのは、夢も見ないほどの深い眠りのことである。このような状態にあっても、心のはたらきはなくなっていない。

 

<解説>②サーンキャ・ヨーガの立場からいうと、自主(プラクリティ)は、三種の徳(guna=グナ;性質)すなわちエネルギーの間のダイナミックな結びつきの上に成り立っているのであるから、従って、それを根源とする心(チッタ)もまた、絶え間なく転変しつつあるのである。

 

<解説>③心は瞬時といえども転変をやめたり、存在しなくなったりはしない。その証拠に、どんなによく眠った後でも「あぁよく眠った」とか、「良く寝たので頭がはっきりした」という記憶が残るのである。それでは、熟睡のさなかには夢も見ないし、外界の物象を知覚したりしないのはなぜか?

 

<解説>④それは、その際の心のはたらきの対象となっているものが、”非存在”(abhava=アバーヴァ)という想念そのものであるからである。

 

<解説>⑤ある註釈家によれば、睡眠とは、目覚めている時や夢を見ている時のような心のはたらきがなくなることの原因であるタマス(暗黒と鈍重とを性格とするエネルギー)の徳(グナ)を対象として生じる、心のはたらきのことである。

 

<解説>⑥あるいは簡単に、ただ「存在しない」ということそのことだけを、”想念対象”とする、心のはたらきのことと解してもよい。仏教で所縁縁は四縁の中のひとつであり、心、心所の対境のことである。

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2016年

2月

20日

ヨーガ・スートラ1-11

[1-11] 記憶とは、かつて経験した対境が失われていないことである。

Recollections are engendered by the past, insofar as the relevant experience has not been eclipsed. ||11||

 

<解説>①この定義は、記憶の二面である把住(蓄積)と再生のうち、把住作用の方をあげているようにみえるが、そうではない。把住の方は、行(ぎょう;サンスカーラ)すなわち潜在意識の中に残存する印象の中の一部をなしている。

 

<解説>②かつて経験された対境の印象は潜在意識の中へ残存するのが把住の記憶である。この潜在的残存印象が消え去らないで、自分と同形の対境を再生するのが記憶である。記憶再生の時は、もとの経験とは逆で、把住する作(はた)らきよりも、把握される対象の方が主になる。

 

<解説>③もとの経験という中には、心(チッタ)の五つのはたらきのすべての場合が含まれている。すなわち、正知ないし記憶はすべて記憶の原因となるのである。記憶と夢とは、類似の心理現象であるが、夢の場合は、潜在意識内の印象が再生するとき、ビジョンとしてあらわれる。

 

<解説>④また夢はことの経験をゆがめたり、それにつけ加えたりする。

 

以上で(五つの)心のはたらきについての説明は終わるが、この五種類のはたらきの下にはまた多くのスブクラスのはたらきがあり、時と所と人に応じて、複雑多用な心理現象を表すのである。

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2016年

2月

21日

ヨーガ・スートラ1-12

〔修習(しゅうじゅう)と離欲〕

[1-12]  心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。

The state of yoga is attained via a balanece between assiduousness (abhyasa) and imperturability (vairagya). ||12||

 

<解説>修習という原語アビアーサ(abhyasa)はシナで数習(さくじゅう)とも訳し、同じしぐさを何べんとなく繰り返して、それに習熟することである。ここに修行というものの本質がある。体操を始めとして、呼吸法、瞑想法を含めたヨーガ行法はすべて、同じことを繰り返して練習することを骨子としている。修習と離欲、この二つの方法をどう使い分けて、心のはたらきの止滅をもたらすかがヨーガの根本的課題であるわけである。

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2016年

2月

22日

ヨーガ・スートラ1-13

[1-13] この二つの止滅のうち、修習(しゅうじゅう)とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。

Assiduousness means resoulutely adhering to one's practice of yoga. ||13||

 

<解説>静止(sthiti=ステイティ)というのは心(チッタ)がそのはたらきをなくして、心の流れが停止した状態をいうのであるが、しかし、ヨーガ哲学からいえば、心のエネルギーのダイナミックな転変(parinama)までがなくなるのではない。ある註釈家は、静止を仏教でいう心一境性(citta-ekagrata=しんいっきょうせい)すなわち注意が一つの対境(対象物)の上に不動にとどまっている状態と解している。これは究極的な静止状態ではない。

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2016年

2月

23日

ヨーガ・スートラ1-14

[1-14] この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。

Success can definitely be achieved via sound and continuous practice over an extended period of time, carried out in a serious and thoughtful manner. ||14||

 

<解説>厳格に実践するというのは、苦行、童貞、信、英智などを具備して、この修行に従事することである。堅固な基礎ができあがるというのは、この修行の習性ができあがって、雑念のために妨げられるようなことがなくなることである。

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2016年

2月

24日

ヨーガ・スートラ1-15

[1-15] 離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。

Imperturbability results from a balance in the consciousness, and when the desire for all things that we see or have heard of is extinguished. ||15||

 

<解説>ここで離欲(vairarya=バイラーギア)は対象に対する欲情を離れた状態のことではなくて、その状態に達した人がもつ、欲情の克服者たる自覚(vasikara-samjna)である、と定義されている。伝え聞いた対象といのは、ヴェーダなどの伝説によって伝え聞いた天上界の幸福などのことをいうのである。

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2月

25日

ヨーガ・スートラ1-16

[1-16] 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くもので、三徳そのものに対する離欲である。

The highest state of imperturbability arises from the experience of the true self; in tihs state even the basic elements of nature lose their power over us. ||16||

 

<解説>①離欲には上下の種類がある。一般に、見たり聞いたりした事柄についての離欲は低い段階の離欲である。低い離欲は、真智を得るための補助手段になるし、その相応の善い結果を生むことはできる。

 

<解説>②しかし、最後の目的たる解脱を得るためには、修行によって真我は自性(prakrti=プラクリティ)とは全く別個のものであるという真智(purusa-khyati)に到達した後、自性の構成要素である三徳(グナ)すなわち三種のエネルギーそのものに対してさえ、離欲の自覚をもたなければならない。

 

<解説>③つまり、客観的世界の根源のさかのぼってまで、これを拒否し、克服して、自己の主体性を自覚的に確立し得た時に、はじめて真我独存という至上の境地に立つことができるというのである

 

<解説>④経文3-49~50では、覚(ブディ)と真我(プルシャ)とが別個のものであるという真智を得た行者は、宇宙万有を支配し、見とおす力を得るが、そんなものに対してまでも無欲となった時に、始めてあらゆる弱点を消尽して真我独存の境地に達することができる、と説いている。

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2016年

2月

26日

ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。

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2016年

2月

27日

ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。

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2016年

2月

28日

ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。

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2016年

2月

29日

ヨーガ・スートラ1-20

[1-20] その他の人々、つまりヨーガ行者たちの(真実の)無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

And then there are some for whom trust, determination, memory and divination lay the groundwork for insight. ||20||

 

   

<解説>①堅信以下の五つの手段は、仏教の修行方法である三十七道品の中の五根(こん)、五力(りき)というグループに属する徳目(信、勤、念、定、慧)と全く同じである。

 

<解説>②堅信(sraddha=シラッダー)とは道に対する信念のことであるが、同時に清澄な心をも意味する。道に対する堅い信念があれば、やがて、道を修めようとする力強い努力(virya)が生まれる。

 

<解説>③この努力は、やがて、いろいろな戒律や信条をいつも忘れずに守ってゆく念想(smrti=スムリティ)としてみのる。念想を行じてゆくうち、おのずと雑念が消えて、三昧の心がまえがあらわれてくる。そうしてついに、世界の実相を如実に知る真智(prajna=プラジナー)が生じる。

 

<解説>④この真智をも離脱した時にはじめて無想(むそう)、無種子(むしゅじ)の三昧が完成されるのである。この間の事情については1-47以下、4-29、4-34に説かれている。

 

<解説>⑤インドの註釈家は、(以て非なるものと真実なるものとの)前記二種の無想を区別して、(1)存在を縁(原因)とするもの(bhava-pra-tyaya)ト、(2)方便を縁とするもの(upaya-pratyaya)と名付けている。

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2016年

3月

01日

ヨーガ・スートラ1-21

[熱心さの強度と成功]

[1-21] 解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、無想三昧の成功は間近い。

The goal is achieved through intensive practice. ||21||

 

<解説>熱情の原語サンヴェーガ(samvega)については、ハウエル氏の意見に従って、ジャイナ教徒ヘーマチャンドラの解釈”moksa-abhilasa”(解脱への欲求)を採用した。仏教では、この語を、生老病死等の苦の姿をつぶさに観察した結果生ずる宗教的情動(religi-ous emotion)の意味に用いている。

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-22

[1-22] 強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

This practice can be light, moderate or intensive. ||22||

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2016年

3月

02日

ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。

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2016年

3月

03日

ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。

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2016年

3月

04日

ヨーガ・スートラ1-25

[1-25] 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。

Ishavara is unmatched and is the source of all knowledge. ||25||   

 

<解説>①一切知(sarvajna=サーヴァジュナー)の種子は比較相対を許さぬはずであるから、無上とか最勝とかいう形容詞をつけるのは矛盾ではないか、という非難を予想して、インドの註釈家は苦心さんたんたる解釈を施している。しかし、本経典全体の思想構成に照らして理解するならば、むずかしい解釈は、無用の長物になる。

 

<解説>②一切知と同じ意味の語「一切知者たる力」(sarvajnatrtva)という語が3-49に出ている。ここでは、覚と真我とが別個のものであるという真知が行者の全意識をみたした時に生ずる、ヴィショーカ(visoka)と呼ばれる超自然的能力(siddhi=シッディ)の内容として、すべての世界を支配する力とすべてのことを知る力とがあげられている。

 

<解説>③さらに3-54には、やはり真智から生ずる、ターラカ(taraka)という霊能が説かれている。(3-33参照)この霊能は、あらゆるもののあらゆる在り方を対象とし、しかもそれらすべてを一時に、なんの手続きをも経ないで、知ることができる能力であると規定されている。だから、一切知は真智を実現した人のすべてに具わる力なのであるが、しかし、特に自在神には、一切知の中でも景勝なものが備わっている。こういわんとするのがこの経文のねらいであろう。

 

<解説>④種子という語は、一切知を芽生えさせる原因、または能力を意味する。一切知の代わりに「一切知者」(sarva-jna)とみても意味は通じる。要するに、ヨーガの自在神は偉大なグルであるが、バクティ信仰の対象のような全能な専制君主ではないのであって、その性格は仏陀やジャイナ教のジナの性格に似ている。一切知、一切知者の理念は多分、仏教やジャイナ教の影響を示しているであろう。

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2016年

3月

05日

ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)

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2016年

3月

06日

ヨーガ・スートラ1-27

[1-27] この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

OM is a symbol for ishvara. ||27||

 

<解説>聖音(pranava)「オーム」(om)はヴェーダ時代から神聖な音として尊ばれて来ている。始めは祭司が祭儀を行う時のうけごたえの言葉であったが、次第に神聖な意義をもつようになり、ウパニシャッドでは、宇宙の根源たるブラフマン(brahman)の象徴とされている。その後この音は特にヨーガ行法と関連して重要さを加え、オームの瞑想はヨーガの中心的な要素となる。だから、ここでこの言葉が自在神のシンボルとされているのももっともなことで、この音の実際的用法は次の経文で明らかにされる。

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2016年

3月

07日

ヨーガ・スートラ1-28

[1-28] ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

Repetition of OM (with this meaning) leads to contemplation. ||28||

 

<解説>①反復誦唱(japa)の行は、2-1、2-44に出ている読誦行(svadhyaya)の一種である。誦唱は低い声で、つぶやくようにとなえる行である。この行は、今日でも、ヨーガの瞑想の際有益な方法とされている。この経文は、誦唱と同時に自在神を念想することを勧める。自在神を念想(bhavana)するというのは、自在神の端厳な姿やその威力などを心に思い浮かべることであって、それに成功した時には、神の姿や声がヴィジョンとなって見え、聞こえてくるのである。(2-44参照)これに似た行法が、仏教の中で、念仏行として発達したことは、われわれにとって興味の深いことである。

 

<解説>②すなわち、小乗仏教では五停心観の中に念仏観が含まれ、大乗仏教では観仏三昧法、生身観法等の禅法として展開している。いずれも、如来の相好(ホトケの端厳微妙な姿は三十二相、八十種好をそなえているといわれる)を念想し、その姿を鮮明な幻影として眼のうちに見、ホトケの音声を耳に聞くに至る行法である。念想の原語バーヴァナ(bhavana)は、語源的には、ものを実現するという意味の語であって、単に抽象的な思考を持ち続けるのでなく、真理なり形像なりを具体的な形で直観することを意味しているのである。

 

<解説>③ところで、仏教でも、この行法は決して高い段階に置かれてはいない。小乗仏教の念仏観は最も初級の仏道修行の一つにすぎないし、大乗の禅法の中でも、観仏三昧や生身観は罪深き衆生(人間)が心を清め、常心を会得するための方便なのであって、これによって解脱したり、成仏したりすることはできないのである。これを以ても、ヨーガ・スートラの中の自在神祈念の法をバクティ・ヨーガと混合するのは大きなあやまりであることを知ることができる。

 

<解説>④聖音誦唱と自在神念想の二つの行法は、同時に行うのがよい。シナで盛んとなった浄土門の唱名念仏は、もとはかかる様式の念仏観であったのである。

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2016年

3月

08日

ヨーガ・スートラ1-29

[1-29] 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすことができる。

Through this practice, the immutable self is revealed and all abstacles (antaraya) are removed. ||29||    

 

<解説>内観の力を得る(pratyak-cetana-adhigama)という原語を、ある註釈家は人々内在の真我を直観する、という意味に解している。これでもわるくはないが、前記の二つの行法に対して、それ程の高い結果を期待するのは妥当でないように思われる。仏教でも、念仏観は種々の間違った見解その他の重罪を除滅するのに役立つものであるが、覚りを開くにはなお多くの段階の修行を必要とするのである。

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2016年

3月

09日

ヨーガ・スートラ1-30

【三昧に対する障害】

[1-30] 三昧に対する障害とは、(1)病気(2)無気力(3)疑(4)放逸(5)懶惰(6)執念(7)盲見(8)三昧の境地に入り得ない心理状態(9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

These obstacles (antaraya) (illness; inertia; doubt; neglect; sloth; desire; blindness; alack of goals; irresoluteness) obscure that which is immutable in human beings(chitta). ||30||

 

<解説>無気力(styana)は仏教用語で昏沈といい、心で強く望みながら、行動に出られないような心理状態。疑(samsaya)とは、二つの事柄のどちらをとるか決断がつかない気持、狐疑とか猶予とかいう語で表してもよい。放免(pramada)とは心に落着きがなく、ヨーガのように周到な注意を必要とすることはやれない性質。懶惰(alasya)は心もからだも重くて、なにもする気になれない心理状態、ものぐさ、ぶしょうなどという語がピッタリする。執念(avirati)とは、ものごとに対して欲望の強いことで、色情に限る必要はない。妄見(bhranti-darsana)とは真理に反する主義、主張、見解である。

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2016年

3月

10日

ヨーガ・スートラ1-31

[1-31] 苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

Suffering, depression, nervousness, and agitated breathing are signs of this this lack of clarity. ||31||

 

<解説①>苦悩(duhkha)は肉体、精神の苦しみを併せて意味する。不満(daurmanasya)とは、欲求がはばまれた時に生ずる興奮の心理のこと。あらい息づかい(svasa-prasvasa)の原語はただ入息と出息の意味であるが註釈家は、三昧に入ろうとする人の意思に反して、息を吸ったり、吐いたりする衝動が起こることで、三昧を妨げる発作の意味に解している。三昧の行中においては、静かで長い規則正しい呼吸を必要とするのであるが、心が乱れている時は、呼吸は不規則となりがちである。

 

<解説②>ヨーロッパのある学者の説によると通例のヨーロッパ人の呼吸は長短不規則な上に、1分間に30回もなされるという。ヨーガで呼吸の練習をするのは、瞑想に適する呼吸の習慣をつけるためである。呼吸の乱れと心の散動とは相伴っているから、呼吸を調えなければ、心を落ち着かせることはできないのである。

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2016年

3月

11日

ヨーガ・スートラ1-32

【心の散動状態を対治する法】

[1-32] 以上のような散動の心理状態を対治するためには、なにかある一つの原理を対象とする修習が必要である。

He who practices assiduously overcomes these obstacles. ||32||

 

<解説>①対治(pratisecha)というのは、医学で対症療法というのと同じように、一つ一つの散動心理を抑え、滅ぼしていくことである。原理(tattva)というのは真理、実在、実態等の意味を包含する。ここでは何かある事柄を択んで、それに注意を向けること(nivesana)を説くのが主眼であるから、その事柄の何たるかにこだわる必要はない。次の諸経文に列挙する事柄は、注意の対象に択ばれるのに適当なものとしてスートラの著者が推奨したいものなのである。

 

<解説>②ある註釈家は「唯一の実在」という意味に読み、自在神への祈念がここに勧められていると解釈している。しかし、次の数節との関連上、この解釈は不適当である。修習(abhyasa)については、すでに1-13に説かれている。修習とは、ある一つの思念の対象へ、心の焦点を、くり返してくり返し合わせることによって、ついには、心のはたらきのすべてを静止させてしまうことである。

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2016年

3月

12日

ヨーガ・スートラ1-33

 【心の静澄を得る方法】

[1-33] 慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる。

All that in mutable in human beings (chitta) is harmonized through the cultivation of love (maitri), helofulness (karuna), conviviality (mudita) and imperturbability (upeksha) in situations that are happy, painful, successful or unfortunate. ||33||

   

<解説>①慈、悲、喜、捨の四つの情操は仏教で四無量心とよばれるものである。その中で慈(maitri=マーイトリ)は他人の幸福をともに悦ぶ心、悲(karuna=カルナー)は他人の不幸をともに悲しむ心、喜(mudita=ムディター)は他人の善い行為をともに慶賀する心、捨(upeksa=ウペークシャー)は他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心である。これらの情操または心術を、ケース・バイ・ケースに念想の対象として、その心をくり返し、くり返して思い浮かべ、それのイメージがハッキリと心の中に形を結ぶようにする。

 

<解説>②この念想を行うことによって、これらの心術の逆の悪い心術は次第に起こらなくなるが、それだけでなく、三昧に必要な静かで澄みきった心が現われてくるのである。ヨーガの行者にとっては、心の静澄(prasada=プラサーダ)が生ずることが主たる願いである。仏教でも、四無量心は十二門禅の中の一つとしてあつかわれている。

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2016年

3月

13日

ヨーガ・スートラ1-34

[1-34] あるいは、気を出す法と、それを止めておく法とによっても、心の静澄が得られる。

The goal can be attained through breathing exercises involving holding your breath before exholing. ||34||

 

<解説>①この経文はいわゆる調気法(pranayama=プラーナーヤーマ)を説いたものである。本経1-31でうたってあったように、粗い不規則な息づかいは散動心の随伴現象であるから、逆に息を調整して心の静澄を得ようとするのが調気法である。ここで気を出す法(pracchardana)というのは、恐らく、時間をはかってゆっくりとそして充分に気息(いき)を吐き出してゆくことをいみしているのであろう。それを止めておく法(vidharana)というのは、胸にみちた気息を留保しておく法、すなわち後世クムバカ(kumbhaka)とよばれる調気法をさすものと思われるが、気息を出しきった後にしばらく吸わないでいることとも見ることができる。

 

<解説>②後の解釈に従うならば、通例の調気法とは違った調気法を説いていることになる。調気については2-49以下にも説かれている規定を比較してみる必要がある。もっとも気(prana)という語は、気息(svasa)と同一ではなく、気息の中に含まれている生命の素のようなものをいみしているから、気息の出入へ直接に結びつて解釈する必要はないとも考えられる(2-49参照)。  

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2016年

3月

14日

ヨーガ・スートラ1-35

[1-35] あるいは、いろいろな感覚対象をもった意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)をいや応なく不動にし、心の静澄をきたすものである(3-36参照)。

- Or by contemplating things and impressions, which promotes mental stability and consolidation ||35||

  

<解説>①この経文は、インドの註釈家の意見に従えば、行者がいろいろな感覚器官へ注意を集中することによって、それぞれの器官に微妙な感覚が生ずることをいうのだという。例えば鼻のさきに意識を集中すると、神々しい妙香の感覚が生じ、また舌端に集中すると微妙な味覚、口蓋に集中すると色の感覚、舌の中央に意識を集中すると触覚、舌根に集中すると音覚が生ずる。かような霊的な感覚を経験すると、行者の信念は確固たるものになる。

 

<解説>②書物や師匠や論証だけでは、どうしても、靴を隔ててかゆいところを搔くようなもどかしさを禁じ得ないが、前記のような感覚的な直接経験をすると、玄奥な哲理に対しても不動の信念を確立することができる。このようにインドのヨーギーは、この経文を3-25などに関連させて解釈している。意(manas=マナス)については2-53参照。

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2016年

3月

15日

ヨーガ・スートラ1-36

[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。

- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||

    

<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。

 

<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。

 

<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。

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2016年

3月

16日

ヨーガ・スートラ1-37

[1-37] あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、静澄が生ずる。

- Or if what is mutable in human beings (chitta) is no longer the handmaiden of desire. ||37||

    

<解説>註釈家はすべて、聖者のを対象として、それに凝念すると解している。聖者の心と断ってある理由はわからないけれども、仏教でも、観仏三昧の中に法身観法というのがあって、仏の内面性というべき、十力、四無所畏、大慈大悲等を観想することになっている。

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2016年

3月

17日

ヨーガ・スートラ1-38

[1-38] あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

- Or through knowledge that is derived from a nocturnal dream. ||38||

    

<解説>夢で得た体験といえば、神の端厳美妙な姿などを夢みることである。かかる夢を見たならば、眼ざめて後も忘れないようにして、それに心をこめる。熟睡で得た経験といえば、安らかな熟睡の後に残るみち足りた心地良い気分のことである。こういうものをも、定心すなわち静澄な心境を得る手段として利用することを忘れていない。同じような、行き届いた教育指導は仏教の禅法の中にも見られる。

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2016年

3月

18日

ヨーガ・スートラ1-39

[1-39] あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる。

- Or through contemplation (dhyana) of love. ||39||

 

<解説>ここでは瞑想の対象の種類は問わない。行者が好むもの、行者の心を引くものであれば、外界の物であろうと、体内の臓腑であろうと、抽象的なものであろうと、具体的なものであろうとかまわない。ただし、その対象が悪いものではないことだけが条件である。

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2016年

3月

19日

ヨーガ・スートラ1-40

[1-40] 以上のような仕方で心の静澄に達した行者には、極微から極大に及ぶすべてのことがらに対する支配力が現われる。

A person who attains this goal has mastery over everything, from the smallest atom to the entire universe. ||40||

 

<解説>ここで支配力(vasikara=ヴァシーカーラ)というのは、行者がどんな微細なものでも、どんな大きなものでも得る力のことである。(3-44参照)。

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2016年

3月

20日

ヨーガ・スートラ1-41

【定の定義と種類】

[1-41] かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。

Once the misconception (vritti) have been minimized, everything that is mutable in human beings (chitta) becomes as clear as a diamond, and perceptions, the perceived, and perceiver are melded with each oter. -One builds on and colors the other. This is enlightenment (samapatti). ||41||

 

<解説>定(samapatti=サマパッティ)は三昧(samadhi=サマーディ)というのと内容においては違わない。三昧の定義は3-3に出ている。それと、ここの定の定義とは表現の仕方は違っているが、内容においては合致している。まさしく、われわれが直観というのと同じ心理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態が、定とか三昧とかいわれる境地である。

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2016年

3月

21日

ヨーガ・スートラ1-42

【有尋定】

[1-42] 定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。

In conjunction with word and object knowledge, or imagination, this state is savitarka samapatti. ||42||

 

<解説>①有尋定(savitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)はいちばん初歩的な段階の定で、心のあらいはたらきが残っている。このことをいまの経文では、語と対象と観念とを区別する分別知が混じているもの、と定義したのである。分別知(vikalpa=ヴィカルパ)についてはすでに経文1-9が定義を下しているが、ここでは、一つの事柄について、それを表現する語と、その語によって示される客体と、それの観念とを区別する知識であると定義されている。真知は語、客体、観念の三者の未分の上に成り立つ無分別知でなければならない。区別される三者のどれもが実体を対象としない言語上の知にすぎない。次の無尋定の定義と比較すればわかるように、有尋定は未だ主客の対立を存する定心の段階なのである。この定義は仏教の分別知の定義にやや近い。1-17参照。

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2016年

3月

24日

ヨーガ・スートラ1-43

【無尋定】

[1-43] 定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である(3-3参照)。

Once all previous impressions (smriti) have been purged and one's own nature is clearly perceptible, then only the object of contemplation emanates light. This is nirvitarka samapatti. ||43||

 

<解説>無尋定(nirvitarka-samapatti=サビタルカサマーパッティ)とは、要するに、主客未分の心理状態のことであるが、ここではこの心理を、記憶のはたらきの消失ということから説明している。詳しく言うと、言葉と意味との慣用的なつながり、伝承や推理に基づく知識など、いわゆる分別知の内容である記憶がすっかりなくなると、心はその対象である客体自体に染まって、まるで知るものとしての自体を捨てて客体そのものに成りきってしまったかのような観を呈する。これが無尋定といわれるものである。尋(vitarka)については1-17に説かれている。

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2016年

3月

25日

ヨーガ・スートラ1-44

[有伺定と無伺定]

[1-44] 前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。

If the object of concentration is of a subtle nature, these two described states are known as savichraara and nirvichara sampatti. ||44||

 

<解説>①微妙な存在を対象とする心のはたらきが伺(vicara=ヴィチアーラ)である。微妙な存在というのは何かについては次の経文が説明する。

 

<解説>②有伺定(savicara-samapatti=サヴィチャラサマーパッティ)というのは、その対象となる微妙な存在が現象(dharma=ダルマ)として顕現し、従って時間、空間、原因等の経験範疇によって限定されている場合の定心をいう。この場合には、主観と客観の対立が見られる。無伺定(nirvicara-samadhi=ニルヴィチャーラサマーディ)というのは、その対象となる微妙な存在が、過現未のいずれの時形においても現象せず、従って時間、空間、因果等の経験範疇に限定されないで、物自体(dharmin=ダルミン)のままで顕現する場合の定心をいう。このように、微妙な客体(artha=アルタ)の実体が赤裸々に三昧智の中に顕現する時には、三昧智はその対象に染まって、自己の実体をなくしてしまったかのように見えるのである。(P251以下参照)

 

<解説>③定を尋と伺のはたらきの有無によって分ける仕方は仏教の禅法の中にも見られる。仏教では天上界を欲界、色界、無色界の三階級に分ける。欲界はわれわれ人間の世界やそれ以下の世界と同じく、欲情によって支配される世界で、その境遇がわれわれのよりもすぐれているだけである。しかし、色界、無色界となると、禅定を修行し、定心を得るに成功した人しか行けない世界であって、この世界の住民は生まれながらにして定心をそなえている。この色界、無色界はその各々が四つの段階から成っている。この二界八段に対して、仏教は三つの禅定を次の図のように配当する。

色界 → 初禅天、二禅天、三禅天、四禅天

無色界→ 空無辺処地、識無辺処地、無所有処地、非想非々想処地 

(初禅天のみ有尋有伺定と無尋有伺定 他は無尋有伺定)

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2016年

3月

26日

ヨーガ・スートラ1-45

[1-45] 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な緒存在を総括した言葉である。

An object can be subtle to the point of indefinability. ||45||

 

<解説>この経文は前の1-44の「微妙な対象」という語の説明である。ここでは万物の根源である自性(mula-prakrti=ムーラ・プラクリティ)のことをアリンダ(alinga)という語で表している。アリンガとは「それ以上の質量因の中へ没し去らないもの」(無没)の意味である。自性に至るまでの形而上学的存在とは数論哲学でいうところの、五唯、我慢、覚(大)、自性の緒存在をいうのである。十一根と五大は単に結果(変異)であって、原因の意味を持たないから、ここに数えられない。真我は独立の実在で、自性から展開する質量因(upadana=ウパーダーナ)の系列に属していないから、「微妙な対象」のうちには入らない。(2-19参照)

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2016年

3月

27日

ヨーガ・スートラ1-46

[有種子三昧]
[1-46] 以上が有種子三昧である。

All of these states of consciousness are called sabija samadhi. ||46||

 

<解説>有種子(sa-bija=サビージャ)という語の意味は、三様に解釈されている。一つには、外的実在(bahir-vastu)すなわち客体を対象に持つという意味、二には、一般に対象を有する意味、三には、未だ究極の真智に達していないから輪廻の世界の束縛の因子を残しているという意味である。有種子三昧という語は、有想三昧という語と区別して用いられているように見える。有種子三昧は、この経文で有尋、無尋、有伺、無伺の四つの禅定の総称ということになっているのに対して、有想三昧は本経1-17によって有尋、有伺、有楽、有我想の四種と計算されているからである。ある註釈家は、両者を混合して、有尋、無尋、有伺、無伺、有楽、唯楽、有我想、唯我想の八定を以て有想三昧としている。禅定の分類にはいろいろな仕方があったことが考えられる。

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2016年

3月

28日

ヨーガ・スートラ1-47

[無伺三昧の極致と真智の発現]
[1-47] 有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。

If you regularly experience the clearest of the four aforementioned states known as nirvichara samapatti, then you are about to experience a state of absolute clarity. ||47||

 

<解説>無垢清浄(vaisaradya=ヴァイシャーラデャ)とは秋空のように澄明な状態をいう。無伺定を熱心に修習すると、覚のサットヴァ性が他の二つのグナのはたらきを抑えて、常に透明で不動な状態を保つようになる。そうすると、内面の静澄(adhyatma-prasada)という状態が実現する。内面の静澄とはいかなるものか?については次の三つの経文が説明しているが、註釈家によれば、それは客体の実相を対象とする真智が思考の過程を経ないで突然に輝き出る直観的体験のことであるという。

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2016年

3月

29日

ヨーガ・スートラ1-48

[1-48] 内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

- Then consciousness will be filled with truth. ||48||

 

<解説>真理のみを保有するという語のリタムバラ(rtambhara)はこの場合の直観智(prajna=プラジュニャー)の名称だとされている。仏教などでも、例えば大円鏡智などというように、悟りの智にいろいろな名称をつける。それによって真智の内容の特殊性を示そうとするのである。ここで真理という語のリタ(rta)はインド・ゲルマン時代からの古い経歴をもつ語である。リグ・ヴェーダでは、この語は「神の秩序」「永久不変の法則」などを意味したが、転じて「真理」「真実」(satya=サティア)を意味するようになる。

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2016年

3月

30日

ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。

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2016年

3月

31日

ヨーガ・スートラ1-50

[1-50] この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

This experience gives rise to an impression (samskara) that supplants other impressions (samskara). ||50||

 

<解説>①行とはすべてに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのをいうのである。ヨーガ心理学では、この行すなわち潜在印象という概念は大切な役割をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩(本経1-5参照)の原因となる。他の一つは業遺存(本経1-24参照)といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。

 

<解説>②ところで、無伺三昧中に生ずる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心(vyt-thana-cita)のはたらきによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現われることをふせぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現われる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり、果となって、連続してゆくことになる。ところがこの三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力をもっているから、心のはたらきを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務(adhikara=アディカーラ)から解放する。任務から解放され、業報を離れた心は、真我に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。

 

<解説>③サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智(viveka-khyati)が生ずることによって到達されるのである(2-26,2-27,3-52,3-54,4-26,4-29参照)。

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2016年

4月

01日

ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。

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