ヨーガ・スートラ4-18

[心と真我との関係]

【4-18】 ところが、心のはたらきは常に意識されている。それは、心の主君である真我は決して転変しないからである。

The true self can always observe the misconceptions (vritti) in that which is mutable in human beings, because this pure self (purusha) in not in motion. ||18||

 

<解説>客観的事象は知られたり、知られなかったりするけれども、心のいろいろなはたらきはすべて、常に知られている。さもなければ、それらは心のはたらきとはいわれない。心のはたらきはいつも意識されていなければならないのである。それでは意識性つまり統覚の根元は何か?そのものは心のようにそれ自身が転変するものであってはならない。転変するならば、それによって知られたり、知らなかったりする場合が出てくるからである。ここに、心の主君としての真我(プルシャ)の実在を要請(理論上での要求)する理由がある。真我は転変というものに無関係であり、かつ真我にあっては存在することと知ることとが必然に結びついているから、心のはたらきがあるところ常に真我によって知られざるはないのである。