ヨーガ・スートラ3-9

〔心の転変の種々〕

【3-9】 雑念の行が隠滅して、止滅の行が顕現する時、その止滅の刹那に心が不可分に結びつくことが、止滅転変といわれるものである。

That high level of mastery called nirodhah-parinamah occurs in the moment of transition when the rising tendency of deep impressions, the subsiding tendency, and the mutable nature of humankind (chitta) converge. ||9||    

 

<解説>今までは、本経の内容はヨーガに関する心理学的な解説ばかりであった。この経文から後しばらくは、形而上学的な理論が展開される。

 

<解説>②これより3-15までの経文で、心(citta=チッタ)の転変(parinama=パリナーマ)という問題が取り扱われる。心の転変ということはどういうことか?このことを理解するには、前にもふれたところの、サーンキャ・ヨーガ哲学における転変説を知らなければならない。この哲学によれば、現実経験の世界は、主観、客観の両面ともに、唯一絶対の根元的実在である自性(prakkrti=プラクリティ)から展開してきたものである。その展開の仕方を転変というのである。転変とは、今までいかなる意味においても無であったものが有となるのではなく、原因の中に元来潜在していたものが、顕わとなったにすぎない(因中有果論)のことをいう。可能態にうつる。これが転変という展開の仕方である。

 

<解説>③ところで、この転変の基礎になっているのは何か?といえば、それは三つの徳(guna=グナ)である。三つの徳の相互関連の様式の変化に応じて転変するというのが実態である。徳はいわばエネルギーであって、ダイナミックな性格をもつから、三徳間の関連様式も各瞬間ごとに、休みなく、ダイナミックに変化しつつある。従って、転変は刹那ごとに行われつつあるのである。だから、現実経験の内容をなす主客両観の存在はともに刹那ごとに転変する不安定しごくな状態にある。ある状態が一時的に安定するように見えても、それは刹那ごとの転変が同じ様相を呈している、というだけなのである。転変というのはこうした展開の仕方であることを頭に入れておかないと、サーンキャ・ヨーガの哲学はわからない。

 

<解説>④さて、ここでは、心の転変がテーマとされている。心は自性の転変によって顕現したもので、三徳から成るものである以上、つねに転変しつつある。心が転変して何が顕現するかといえば、そこに心のいろいろなはたらき(1-6参照)と状態(bhumi=ブーミ)が現象する。心の転変の一種である状態には五種類あるが(後方参看)、雑念(vyutthana=ヴィウツターナ)の状態と止滅(nirodha=ニローダ)の状態とに二大別される。両者は相反の関係にある。雑念の原語には、起動とか発生とかいう意味があるから、雑念は止滅の反対概念になるのである。

 

<解説>⑤ここでもう一つ、法(dharma=ダルマ)と有法(dharmin=ダルミン)という対偶的概念についての哲学理論を紹介する必要がある。インド哲学では、法と有法は判断の賓辞(predicate)によって表わされるものと、主辞(subject)によって表わされるものとを意味している。有法(法をもつものの義)は法が置かれる場であり、法は有法において置かれるべきものである。だから、この両者の関係は、今日の論理から言えば非常に広いバラエティーをもっている。主辞と賓辞、実体と属性、場所とそこにあるもの、不変の実体とそれの現象などといった関係がそこに包括されている。今ここで問題になるのは、実体(個体的)とその現象という関係としての有法と法の関係である。というのは、ここで心と二つの行(潜在印象)とが、有法と法、つまり、実体とその現象という関係において考えられているからである。心は自性から転変して生じたものであるが、自性へ還没する時が来るまでは自己同一性を保持するから相対的に恒常性をもっている。これに反して、雑念と止滅の行(潜在印象)は刹那(laksana 正確には一瞬きする時間の四分の一で、時間の最小単位)ごとに生じて滅びる、まことに無常なものである。だから、この間の関係は有法と法との関係であって、有法たる心は雑念の行と止滅の行という二つの法を、所有しているということになる。

 

<解説>⑥そこで、凝念以下のヨーガ修習において、雑念を止滅して起こらせないようにする心理過程を心の転変という見地から解釈するならば、どういうことになるか?これが、この経文の問題なのである。この経文はこの問題に対してこう答える。止滅の修習においては、雑念の行が止められて、それが心のはたらきとして意識の表面に顕現する(仏教で現行という)力をうしなってしまうのに反して、その反対の法である止滅の行が力を得て顕現する。この時、止滅の行が現行すべき刹那と心との間に、一つがあるところ必ず他の一つがあるという必然的な関係(anvaya)が成り立つ(3-14参照)。この結びつき、いいかえれば心が止滅の現象は現われ得ないわけである。ただし、止滅の行と心とが結びつくといっても、止滅はもともと意識面に想念として現われ得ない消極的な法(現象)であるから、この止滅の転変の際には、止滅の行が心の潜在面に残ってゆくだけで、なんらの想念も意識面に浮かび上がってはこないわけである。とにかく、この経文によって、サーンキャ・ヨーガの哲学においては止滅というような消極的な概念さえもが、積極的でダイナミックな意味に理解されていることがハッキリ示されている。

 

<解説>⑦ちなみに、心の状態には

1)落ち着きがない状態(ksipta)

2)痴呆状態(mudha)
3)散漫な状態(viksipta)

4)専念状態(ekagrata)

5)止滅状態(nirodha)

の五種があるが、その中で、始めの三種が総称して雑念状態といわれるものである。