ヨーガ・スートラ2-13

[2-13] 煩悩という根因があるかぎり、業遺存の異熟果である境涯と寿命と経験が発現する。

The outcome of these circumstances is manifested by a person's station in life, longevity, and the extent to which they achieve happiness. ||13||

 

<解説>①煩悩が業遺存の根原因であることを、業報との関係において明らかにした経文である。善悪の業はその影響を業遺存という形で心の潜在領域のうちへ残す。この業遺存が顕在の世界に業報という結果を産むには煩悩のはたらきが加わらなければならないのである。この場合には煩悩は根因といっても、助因の役目をするにすぎない。しかし煩悩がなければ業遺存は実を結ばないで立ち枯れになってしまうのである。このことは、何故に煩悩を断ずることによって輪廻から解放されるのかの理由を明らかにしている。煩悩は、一方では業そのものの因であり、他方では業遺存が業報を結果するための因であるという二重の原因性をもつことになっている。

 

<解説>②業報の原語ヴィパーカ(vipaka)は元来、食物を火を以て料理することを意味し、熱を加える前の材料とは全く違ったものが生ずることを意味する。仏教では、異熟と訳する。行の中には、記憶、煩悩、業依存が含まれているが、記憶や煩悩などは心理現象として顕われてくるのに対して、業遺存は外部的現象として顕われて来るのである。それは、人間や神々や地獄の住人などの境涯(jati=ジャーティ)、その境涯の中で生きる寿命(ayus=アーユス)の長短、またその一生涯のうちに受ける幸福や不幸の経験(bhoga=ボーガ)の三種として客観界に現われるのである。

 

<解説>③業と業報との関係については、仏教にも難しい理論があるが、ヨーガでも詳細な検討が行われたものらしい。註釈家の言うところによれば、同じ行すなわち潜在因の中で、記憶や煩悩は無始の昔から幾度とも知れない輪廻転生の間に蓄積されたものが網状になって心をがんじがらめにしているが、業遺存は大体一生の間の業の影響しか残していない。業遺存は現生または、次の生において業報となって消費されてしまうからである。

 

<解説>④それでは、業から業報はどうして生ずるか?現生業の場合は問題はない。来生業の場合についていうと、まず一生の間に集積された業遺存には主になるものと、副になるものとがあって、人が死に臨んだ時、主なる業遺存を中心としてすべての業遺存が一丸となって顕われて死をもたらし、やがてまた結集したままで次の生の境涯と寿命と経験とを結集するのである。だから、業遺存は前の一生の業から生じ、そして次の一生の間に消尽される性質の行(eka-bhavika)といわれる。善因善果、悪因悪果という格言で表される業因果についてはなおいろいろ考えるべき問題があるが、今は省略する。