ヨーガ・スートラ2-6

[2-6] 我想とは、見る主体である力(真我)と、見るはたらきである力(覚等)とを一体であるかの如く想いこむことである。

Confusing the immutable core with the transient shell is referred to as identification with the mutable (asmita). ||6||

 

<解説>①真我を見る主体である力(drg-sakti=ドゥリグ シャクティ)とよび、覚等の心理器官を見るはたらきである力(darsa-na-sakti=ダルシャナ シャクティ)と表現しているのは、ヨーガ的発想の特長を示している。真我も覚等もともに能力(sakti=シャクティ)なのであって、実体ではない。認識主体と認識器官などというのとは少しニュアンスが違うのである。数論・ヨーガ哲学のダイナミックな考え方がここにも現われている。

 

<解説>②註釈によっては、見るはたらきという代わりに、見られるもの、または見る道具と解釈する。後者の能力を以て内的心理器官(antah-karana=アンタカラーナ)である覚、我慢、意の三者に心(チッタ)を加えた四つの器官全体を表わすものと解することもできるが、覚(ブッディ)だけを表わしていると解する方が普通のようである。註釈の中にサーンキャ哲学の有名な哲学者パンチャシカの言葉が引用されている。

「覚よりも上に、形相、性向、智性の点でそれとは異なるところの真我があることを知らずして、覚に対して真我の見を抱くのは無知のためである」