ヨーガ・スートラ1-51

【無種子三昧】
[1-51] 最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する(3-50参照)

Nirbiija samadhi is attained once even these impressions have become tranquil and when tranquil and when everything has become tranquil. ||51||   

 

<解説>①この経文は第1章の結びとして、1-2の経文と同じ、ヨーガが止滅(nirodha=ニローダ)を本質とすることを改めて明らかにしたものである。ここで止滅というのは、散動する心のはたらきの止滅ばかりでなく、無伺三昧の智から生じた行をも止滅してしまうことを意味する。したがって、この止滅は、止滅に属する二つの方法のうち離欲(vairagya=ヴァイラーギヤ)の方であると見ることができる。

 

<解説>②離欲には低次のものと高次のものとがあるが、今のは高次の離欲であって、三昧境において現われる真智そのものに対してさえも離欲することである。真智といえども自性の三徳を根源とするものであるから、これに対してさえも離欲することによって、三徳を根源とするすべてに対して離欲することになる

 

<解説>③この最高の離欲である止滅を修習するとき、無種子三昧の境地が顕現する。無種子三昧は心の対象のすべてが根絶した状態であるから、心は真我を如実に映ずることができる。この時真我は真我は自己が独立自存で、生死を越え、永恒に輝く英智であることを自覚する。それと同時に、心は自己の目的を遂げたことを自覚して、自己の根源である自性の中に没入し、現象へ展開する任務から永遠に解放される。これが解脱とよばれる事態である(3-50,3-55,4-34参照)

 

<解説>④この経文について、ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)は次のように解説している。

「諸君もご存知のように、われわれの狙いは、真我そのものを把握するにある。われわれが真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混合されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも間違っている。なぜ真我がこういうものと混合されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。われわれはこれらの波を通してしか真我を見ることができない。波が愛情という波であれば、われわれは、その波に反映した自己を見て、私は愛している、という。もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、私は弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。それで、パタンジャリは、まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波のすべてを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。火を以て火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑圧するのはたやすい。この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。この時、われわれは、真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永しえに生きる、知性の本質であることを知るのである。