ヨーガ・スートラ1-49

[1-49] この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。

Consciousness is characterized by a special relationship to the object. This relationship exceeds the bounds of knowledge that is received and followed. ||49||

 

<解説>①この経文は三昧の境地において現われる直観智を対象の面から性格づけたものである。この直観においては、微妙な客体(artha)が独立、絶対の個体としての鮮明な姿を以て顕現するのである。ところが、伝承や推理を認識手段とする知性は存在の普遍性の面を対象とするもので、特殊性をもった具体的な事象を直接に対象とすることはできない。

 

<解説>②ヨーガ思想では、正しい認識を得る方法として三つの量(pramana=プラマーナ)を立てる。

1)聖教量(agama,aptavacana)ー 伝承を根拠とする認識方法

2)比量(anumana) ー 推理による認識方法 

3)現量(pratyaksa,drsta)ー 感覚的経験による認識方法

この三つの中で、聖教量と比量とは、言葉と概念を媒介とする間接的な認識方法であるから、存在の普遍性すなわち共通性に関する認識しか得られない。何故かといえば、言葉や概念は、個体の特殊な面を表わさず、その普遍的な面しか示さないからである。第三の現量だけは、事物に関せる直接的な認識であって、存在の特殊面をとらえ、個体としての事物を認識対象とする。いま問題となっている無伺定において実現される直観智は、事物の個体としての存在性を直接に認識対象とする点で、聖教量や比量とは全く異質のものであるというのである。この点からいえば、現量は我々のいう直観智に似ているということができる。我々は、経験的直観における色や音の把握を以て、三昧の直観智に比擬することができるのである。しかし、両者は、同じく直接認識ではあっても、その次元を異にしている。三昧智の対象は微妙、幽玄、絶対なもので、世俗の経験では到底把握し得ないものなのである。それでも、直観的で、明晰で、特殊的である点で、両者が似ていることは、多くの哲学者によって認められている。

 

<解説>③インドで哲学思想のことをダルシャナ(darsana)とか、ドリシティ(drsti)というのは、もともと「見る」(drs)という動詞から来た語で、現量という語の一つの原語であるドリシタ(drsta)と親類筋になることは誰しも気付くことである。インドでは、各派の哲学思想は元祖の直観智い源を持っていると考えられ、また末流によって直観的知識にまで、練り上げられるべきものであるとされているのである。カントは直観(Anschauung=アンシャウウング)を経済的(sinnlich=ズィンリッヒ)なものと知的(intellektuell=インテレクチュエル)なものとに分け、知的直観は想定されるだけで、人間の認識能力の範囲にはない、と考えた。もしも知的直観があるとすれば、それは積極的な意味での本体(ein Noumenon in positiver Bedeutung)を対象とするものでなければならない。とカントはいっているが、インドの哲学者はこのような直観を実際に体験していたのである。