ヨーガ・スートラ1-23

[自在神への祈念]

[1-23] あるいは、自在神に対する祈念によっても無想三昧の成功に近づくことができる。

The goal can also be attained via submission to the concept of an ideal being (ishvara). ||23||

 

<解説>①自在神(唯一至上の神)に対する祈念(isvara-pranidhana=イーシュヴァラ プラニダーナ)という語は、インド註釈家によってバクティ(bhakti=誠信)信仰を表示しているものと解釈され、現代の研究家もこれに疑をさしはさんでいない。

 

<解説>②バクティ信仰というのは、古くは聖詩バガヴァッド・ギーターの中に出てくる信仰形態で、天地の創造主、支持者、破壊者たる至高、絶対な神に対して、全身的愛を以て帰依する信仰である。しかし、このような信仰形態をこの経文の中に読み取ろうとするのは無理である。

 

<解説>③第一に、バクティ信仰はヨーガ・スートラの思想体系とは別な思想体系に属している。ヨーガ・スートラの流れはラージャ・ヨーガと呼ばれるのに対して、バクティを中心とする流派はバクティ・ヨーガと呼ばれる。ヨーガ・スートラはここで、にわかにバクティ・ヨーガに思想の債務を負う必要はない。ヨーガ・スートラの立場からいえば、ここで絶対神への帰依信仰(バクティ)などを持ち出すことはスートラの思想を混乱させるだけである。

 

<解説>④第二に、次の数節の経文を見ればわかるように、ここの自在神(isvara=イシュバラ)は、バクティ信仰の対象になるような、絶対的な機能を持つ神ではない。だから、もしもここにバクティ信仰が説かれているとするなら、それはバクティ信仰の戯画が縮小図ということになる。現代のある学者が、ここの数節の経文を、作者の妥協的な性格のあらわれと受け取ったのも無理ではない。

 

<解説>⑤いずれにせよ、ここの数節(1-22~29)をバクティ・ヨーガの解説と見たのは根本的にまちがっている。そのまちがいの元はプラニダーナ(pranidhana)という語の意味を取り違えたところにある。この語の意味は註釈家たちにはもうわからなくなっていたように思える。

 

<解説>⑤この語は仏教用語として、シナで誓願と訳されているものであるが、誓願というのは、ボサツ(菩薩)すなわち大乗仏教の修道者が、修行の道に入ろうとする当初に、自分の志願を表白して誓いを立てることである。パーリ語や仏教梵語の用法では、この語(Pali,panidhana)は、強い願望、祈り、執心などを意味する。ここでは、偉大な神的存在に対して、一心に三昧の成功を祈念することが、自在神への祈念の内容なのである。

 

<解説>⑥この行法のめざすところは、至高神との合一などという大それたものではなくて、無想三昧の成功ということに過ぎない。自在神といっても、師(guru=グル)の役目をするだけのもので、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能を持つところの、いわゆるではない。

 

<解説>⑦こう考えるならば、この行法がここで説かれているのも無理ではないし、またこの行法が2-1で、行事ヨーガ(kriya-yoga=クリヤーヨーガ)の一部門としてあげられ、2-32、2-45で勧戒(niyama)の中の一項目とされているのも、もっともなことと納得することができるのである。<解説>⑧2-44には、聖典読誦の行によって守護神(ista-devata)の姿を見ることができる、と説いているが、この守護神の中の特別な場合が今の自在神である。守護神の目的もまた(無想三昧へと)行者を助け導く師の役割を演ずるにある。