ヨーガ・スートラ1-19

[1-19] 離身者たちと自性(じしょう)に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある。

Some people are born with true insight, whereas others attain it via a divine body or oneness with nature. ||19||

 

<解説>①離身者(videha)とは、「肉体を離脱した者」の意味であるが、一般に神々の異名として用いられる。しかし、ある註釈家によれば、五つの物質元素(bhuta=ブータ)または11の心理器官(indriya=インドリア)の一つの真我を思い込んだため、死後それらの中へ没入してしまっている者のことだという。

 

<解説>②自性(プラクリティ)に没入した者(prakrti-laya)というのは、五つの微細元素たる唯(tan-matra=タンマートラ)、自我意識たる我慢(ahamkara)、その上の原理たる大(mahat=マハット)、さらに究極原因たる未顕現(avyakta=アヴィアクタ)をあやまって真我と思い込んだ結果、それらの中へ落ち込んでしまった人々のことである。

 

<解説>③これらの者は、一時的には解脱したかのように見えるが、いつかは再び輪廻の世界に戻らねばならない運命にある。

 

<解説>④存在の想念を含む(bhava-pratyaya)という語は、「存在に関する想念から生じた」という意味に解してもよいが、いずれにしても、想念に関係する以上、自己矛盾のように思われる。それで註釈家にはみな、存在(bhava)を原因(pratyyaya)とする無想三昧というふうに解釈する。存在とは輪廻の世界の存在のことであるから、それらの人々の存在状況そのものから自然に生じた無想三昧的な心境のことを、言っていると解される。

 

<解説>⑤かかる無想三昧は自然生のもので、自覚的実践に裏付けられていないから、真の解脱へ導く力を持っていないのである。また存在の意味をさらにつっこんで無知(avi-dya)の意味に解している学者もいる。また、存在(輪廻)の原因となる無想三昧というように理解してもよいであろう。