ヨーガ・スートラ1-18

【無想三昧】

[1-18] もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

The other state of insight, which is based on persistent practice, arises when all perception has been extinguished and only non-manifest impressions remain. ||18||

 

<解説>①これが三昧の最高境地である無想三昧(a-samprajnata-samadhi)の説明である。要するに、こころの中に起こってくるどんな思慮をも絶えず打倒して行って、最後に心の中が空虚になった状態が無想三昧である。

 

<解説>②この時、意識面にはもはや一つの想念も動いていず、ただ意識下に沈でんしている行(ぎょう)すなわち過去の経験の潜在印象が残存しているだけである。行というのは、サンスカーラ(sam-skara)という原語に対する仏教的な訳語であって、あることが経験された時に潜在意識内に生じた印象のことである。

 

<解説>③この潜在印象たる行は、後に再び何らかの形で現れてくるまでは、心(チッタ)の中に潜在する。行の中には、記憶表象となって再現するものや、人間の境遇、寿命などの形で再生する業(ごう)などがある。(1-50, 3-18, 4-9参照)

 

<解説>④さて、この経文で、心のうごきを止める想念(virama-pratyaya)を修習する、というのは、何かある想念が浮かんでくるごとにその想念を消し止めてゆくことである。止める想念は消極的想念であって積極的内容は持たないが、しかし、その否定の力を行として潜在面に残すことはできる。

 

<解説>⑤想念を止めるものも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。(3-9参照)。道元禅師『普勧坐禅儀』に「念起こらば即ち覚せよ。これを覚せば、即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」とあるのは、同じ趣向である。