ヨーガ・スートラ3-35

【3-35】 サットヴァと真我とは、絶対に混合しないのに、両者が想念において混同されている状態が経験とよばれるものである。そこで、自己以外のもの(真我)のためにあるところのサットヴァを捨てて、自己のためにのみある真我に向かって綜制をなす時、真我の智が現ずる。

Outer enjoyment (bhoga) areises from a failure to distinguish between the physical world and the treu self, which are very different from each other. Knowledge (jnana) of the true self (purusha) arises from meditation (samyama) on matters concerning the true self rather rhan external matters. ||35||

 

<解説>①この一節は原文そのものに異なった読み方があるばかりでなく、意味の上でも理解に困難なところがある。ところで、サットヴァの上に描き出されたいろいろな形像の上に真我の影がうつることによって、そこに意識性を帯びた想念が現われる時に、その照らし出された形像を真我そのものの姿だと思い違いをして悦んだり、悲しんだりするのが経験(bhoga)とよばれるものである。この経験は、自性が真我のために自らを展開して作り出したもので、自性自身のためではない。それで、自性の展開である心のサットヴァを見捨てて、自己目的的である真我へ専ら綜制をすると、真我を如実に知ることができる、というのである。

 

<解説>②ところで問題は、綜制が向けられる相手は、真我そのものなのか、真我の想念なのか、ということである。綜制はサットヴァのはたらきであるから、真我を直接に対象にすることはできないという立場もある。その立場からいえば、この際綜制の対象となるのは、サットヴァの上に映じた真我の影像ということになる。想念に、サットヴァを本質とするものと、プルシャそのものからなる想念とがあって、綜制はこの後の想念に向けてなされる、見るわけである。しかし、真我そのものからなる(pauruseya)想念という考えには賛成し難い。むしろいろいろな想念の中で、もっぱら真我だけを対象とする想念に綜制を行なう、と考える方が無理がないであろう。また、真我を知り得るものは、真我しかない、という立場に立つならば、真我を知る智は真我自身のものだということになる。