ヨーガ・スートラ1-17

【有想三昧】 

[1-17] 三昧のうちで尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)と呼ばれる。

This absolute knowledge is engendered incrementally by divination, experience, joy, and ultimately the feeling of oneness. ||17||   

 

<解説>①ここでは、三昧(samadhi=サマーディ)も、ヨーガも、止滅(nirodha=ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガとよんでもよいのである。三昧は有想(samprajnata=うそう)のものと無想(a-samprajnata=むそう)のものとに分けられる。

 

<解説>②有想の三昧はさらに(尋、伺、楽、我想がある)有尋(うじん)、有伺(うし)、有楽(浦区)、有我想(うがそう)と分けられる。経文1-42以下では有想三昧を有種子(うしゅじ)三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。

 

<解説>③この1-17の経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まっていゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有尋三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階をのぼるに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に至ると我想だけが残っている。

 

<解説>④(第一、第二段階)の尋(vitarka=ヴィタルカ)とか伺(vicara=ヴィカーラ)とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大なはたらき、伺は心の微細なはたらきとされているが、その間の区別を明確にきめることはむずかしい。

 

<解説>⑤インドの学者の中には、心のはたらく対象の方から区別して、五大(五つの物質元素)と十根(こん)(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(ゆい)(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋を推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。

 

<解説>⑥仏教では、尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれかこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所で細かく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda=アーナンダ)である。

 

<解説>⑦この楽の境地もなくなり、最後に我想(asmita=アスミター)だけが残る。我想は経文2-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。

 

<解説>⑧しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、すべての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、なお、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。

 

<解説>⑨このように、有想三昧には、瞑想の深まるにつれていろいろな段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行(ぎょう)であって、それらの一つにとらわれるようなことがあってはならないのである。

 

<解説>⑩最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心(じょうしん)が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へクッキリ浮かび上がって来る。これをも乗り越えた時に始めて解脱は得られるのである。

 

<解説>⑪すべて、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着をもったりすることは、おそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境(まきょう)とよんでいる。これについては後に詳しく述べる機会があろう。